臍手繰り

母親を犯したいと思うのは、誰でもあることだと思っていたが、どうやら違うんだということがわかったのは中三の夏だった。
なんでそんなに気づくのが遅かったのか、自分はアホだったからだと言い聞かせて、何年になるだろうか。
そんなことはどうでもいいのだが別に、どうでもよくないと思うのはやはり、俺には、俺は、母親を知っていないんだということだったし、三十三年生きてもそれが、生きる価値を左右しているものとして在るような気がする。
俺は何故か、母親を捨てたという気で生きてきた、それはなんで。
なんで?ということを母親に問い詰められたら、問い詰められる未来が存在してたら、いいのにな。
なんてそんなこと、特に思ってない。
特殊清掃員とやくざ、どっちになろうかと思って結局、両方になりました。
三十三歳で、三十三歳で、憧れていたので、両方、に。
毎日が死にたい、ただなんとなく、苦しんでれば苦しんでるほど、お母さんは俺と再会するだろうという予感、それは本当にはっきりとした予感、それが、ひどく胃痛とともに起こって僕をなだめるのです。
毎回こうです。そんなことは、思っていない。
お酒を飲むと、こうなんです、すみません。
ギロウたんは飼ってるカメノムシに頭を下げて、そそくさとあったかい布団に入り眠りて、こけました。
俺は最近、自分でギロウたんと呼ぶことが嬉しい、でも本当は母親に義郎や、と言われる呼ばれることが嬉しいの?と俺は俺に向かって言いました。
返事は、ありませんでした。
ピーナッツの上に載って太平洋を渡り、ピーナッツを背負って知らない国を旅し、ピーナッツを抱いていつも眠るカメノムシの「ピーナッツとカメノムシ」という童話を考えて火に燃やして、眠るように死んで見たいと呟いてみて、死にました。といって寝ました。
延々と続く桟橋の先がどこにあるのだろう?という夢を見た夢という夢を捜索してる現実世界の俺という夢を見た俺を描いている俺の小説を書くのをやめた俺という夢を見ていたような見なかったような気持ちで目が覚めた。
真剣に生きるということをやめたんですよ、俺はあの日からね、お母さん。
真剣に生きるということをやめたんですよお母さん、俺はあの日からね。
あの日を俺は思い出せなかった。
でもなんとなく、生まれた日じゃなかろうかなと、すごい実感として感じることができたのです。
お母さんと別れる日より、前に、俺はそうだったんです。本当に。
だからお母さんのせいじゃないよ、僕がこんないい加減で価値のないような生きる価値のないような人間であるのはさ。僕をとがめないでほしい。
僕がこんななのは、僕自身が決めたことなんです。
好きでやって、好きで苦しんでるって僕思って生きてるんですよお母さん。
そんな僕を、否定しますか。
僕はあなたを犯したいんですよ、お母さん。
何故だかはわかりません。
わかりたくもない、そんなこと。
あなたのそばにいられなかった時間がわたしを異物のように体内から外へ追い出すんです。
まるで死んだ細胞みたいな扱い方をこの世界上でされてしまう。
どのようにして、生きてる振りをしてわたしが生きてきたか、あなたはわかりますか?
死んでいなかったんですね、お母さん、死んでいなかった。
騙すつもりもない人間が一番、人を瞞着しているんだ。
死んでいてほしかったと思います。
電話のベルが突然鳴り響いた。夢想にふけっていた義朗はびくっと驚いて飛び起きて電話に出た。
時間は午前0時前である。
「はい、どうも特殊清掃のバイソン屋です」俺ははきはきと明るい声で出た。
「あの、すんません、あのねぇ、うちのね?犬がね、飼ってた犬がぁ、死んでもうたんですわ、うちで、でね、かなりもう、腐ってるんですよ、臭くって、手につけられないんですよ、今から、今すぐ来てもらえませんか?」
おばはんみたいなしゃべり方をする若い女の声だった。
俺は場所を聞いて「だいたい30分前後で伺います」と言ってスーツに着替えて清掃着を持って車に乗って走らせた。
見積もりはぴしっとしたスーツ姿で行うのが特殊清掃業の習わしなのである。
ふんでだいたい見積もってこれこれこんくらいと言ってOKなら清掃着に着替えマスクをつけて腐乱した死体や死体跡を片付けていくのだが、客の若い女は限界額の13万に下げてもうーんと唸ってなかなかOKサインを出してくれない。
ワンルームのドアを閉めて薄暗い廊下で交渉をはじめる。
「ほんまやったら、もうすごい腐ってるでしょ、匂いがもうだいたい半年は残る可能盛大なんですわ、でも専門のうちにやらしてもろたら、完全にものの一時間やそこらで消してしまうことができます、その値段やと思といてください、ほかに頼んだらたぶん20万以上は取られますよ」
「うーん、でもなぁ、匂いは別にいいかなーなんて、ただ死体を片付けてもらえばそれで、オーケーなんで、あと分割払いって無理なんですか?」
「できたら一括でお願いしてます、でも、どーしても無理と言わはるなら、うちが貸しますんで、そん時はご遠慮なくゆうてください」
「えっ、お金貸してくれはるんですの?」
「はい、金利はなしでお貸しいたします」
「まじで?じゃー借りよっかなー」
「その代わり」
「その代わり?」
「3ヶ月経ってもお返しいただけない場合は、どうしてもどんな手段においてもお返しいただくことになっております」
「と、いうのは?」
「まぁ、どんなことをしてでもお返し願うってことなんです」
「はぁ・・・・・・」
女は上目遣いで俺を眺め、なまめかしそうな声で言った。
「あのぉ、もしよかったらこれで」
そう言って女は俺の右手を自分の左胸に当てて懇願する顔をした。
「これってどれですか?臓器売買ですか?」と俺が聞くと女は恥ずかしそうに「いやそうじゃなくて、体で・・・・・・」とこたえた。
「女性のお体でお支払いということですね?大変申し訳ないのですが、僕は中老専門で、50代以上じゃないと興奮できないんですよ」
「そうなんですか・・・・・」女は心底がっかりしたという様子でうなだれた。
「おいくらなら出せるんですか?」と率直に訊いてみると女は申し訳なさそうな顔と声で「実は5千円しか今出せなくて・・・・・」と言って声を詰まらせた。
こういうことは結構あるのだが、最低でも5万しか今はない、とかだったのが5千円と聞いて非常にわびしい気持ちになった。うちは特殊機関を通してのさばっている闇の特殊清掃会社で、最近はそんなことは何も知らずに電話してくる客も増えてきたから普通の清掃費を倍以上にぼったくって稼いでるが、5千円でやってくれる清掃業者などどこにもおらず、なんでそんな安がねで特殊清掃業者に頼もうなんてこの女は思ったのだろう、頭がちょっとおかしいのだろうかと思った。
「誰か、頼めそうな人はいはらないんですか、ご友人とか、ご家族とか」
女は首を横に振って泣きそうになりながら「誰もいません」と応えた。
「匂いは平気とおっしゃいましたけど、腐敗臭とゆうのは強烈なもんですから、このマンションも賃貸でしょう、出て行った後にも残るということがあるんですよ、だから今しっかりと清掃しておかないと駄目なんですよ、それを取るには専用の特殊な道具を使わないといけないんで、その分高くなっちゃうんですよね」
女はとうとう涙をこぼして泣き出した。
10分くらい待ってもただ泣いてるばかりだったので「ちょっと相方に電話してみます」と言って電話をかけた。
相方はすぐに出て、「今すぐ仕事先に来れるか」と聞いたら「はいはい、すぐ行けます兄弟」と言うので場所をつげて相方を待つことにした。
ドアの隙間から漏れてくる腐敗した犬の匂いをかぎながら、女と二人で狭い廊下に座り込み落ち込んで無言でいる女と待っていると電話が鳴って出たらドアの前にいると相方のジョウ君からで、ドアを開けたらジョウ君がドアの前に疲れきったさわやかさというものを持ち合わせて普段着で突っ立っていた。
ドアを閉めて玄関に立ったまま「兄弟、どうしました?」と泣き疲れた顔の女とただ疲れてる俺を交互に見ながら聞くジョウ君に俺はめんどくさかったので直裁に「お客様のお金がね、今5千円しかなくって、もしよかったらジョウ君、ここにいる萩原さんを13万円で、好きにさせてもらえるということなんやけども、ちょっと考えてみてくれへん?」
賢いジョウ君はたったそれだけで事の事情がよくわかったらしく「13万円ですか・・・・・」と言葉を失って女の顔から足先まで眺めて「うーん」と唸った。
「分割払いでもええよ、さんつきで13万、4万くらいで今月は、で、その後のことは荻原さんと話し合ったらいいかもしれないし」
「4万ですか・・・・・」
「デリヘル二回頼んだと思えば」
「いやぁ、二回って結局六回頼むことになるし・・・・・」
「だから今月は二回頼んだと思えば、なんとか」
「なんとかって、うーん、っていうか、ここでですか兄弟」
「ホテル行ってもええけど?俺そないだに清掃しとくし」
「ホテル代は誰が・・・・・」
「おまえしかおらんやろ」
「うーん」と言ってジョウ君は困ったように笑いながら「それじゃ荻原さん?僕が今月、4万出しますから、まぁ5千円引いて、3万5千円ですね、出しますから、それを来月、どれくらい僕に返せますかね?」と女に聞いた。
女は半笑いで「ちょっと、わからないです、ごめんなさい」と言った。
「わからない、ですか」とジョウ君は俺の顔を少しく厳しい顔をして見た。
ジョウ君の咎めたい事柄は俺もよくわかるが、俺が気にしてるのは女でもジョウ君でもなく、犬の腐乱した死体がこんなことでほったらかされてることだった。
俺はジョウ君に寄ってって耳元で「ええから知り合いをようさん呼べ」と言った。
ジョウ君は「まさか、輪姦させるんですか・・・・・」と俺の耳に囁いて俺はジョウ君の目を凝視した。
ジョウ君は「いくらなんでもそれは」と乾ききったうっすい声で呟いた。
俺は泣きたい気持ちになって「犬が腐乱してんねん、扉の向こうで」と人を疑ってるような目のジョウ君に向かって言った。
青ざめたようなジョウ君は少し考えるようにして「ちょっと交渉してきますわ」と言うとドアの外に出た。
俺も貧血のようになってその場にしゃがみこんだ。喉が強烈に渇いて水が飲みたかったが、一滴も何も口に入れる気になれなかった。こういうときにだけ、煙草をやっておけばよかったとよく思う。
ひどく気持ちの悪いいたたまらなさで待っているとドアが静かに開いて、「とりあえず、二人呼びました」とジョウ君が小さい声で俺に伝えた。
二人の連れはこの近所に一緒にいたらしく二人同時に早くにやってきて、「こんばんはぁ」と酒とニコチン臭い息を吐いて部屋に入ってきた。
二人の男は無言で真面目に女を商品のごとく品定めして、ジョウ君も入って、一人いくら出せるのかを真剣に話し合った。
一万以上も出して女とやりたがる男は一人もおらず、なんとかいつか返してもらいたいという気持ちでここはしょうがなく一人一万二千円出して、女と寝る、ということに決まった。
別に無理に寝なくてもいいと思うのだが、三人が三人ともちゃんと女と寝るということを決めたのは、女に対する情けのようなものだったのかもしれない。
三人の肩を落とした男と荷が下りたというような顔をした女が部屋を出て行ったあと、俺は清掃着に着替えてマスクをはめ、扉を開けて犬の死体と向き合った。
輝かしい腐乱死体がそこにあった。
大小さまざまの宝石を散りばめたようなルビーの肉片とダイヤモンドの蛆がきらきら光って俺を待っていた。
そう一瞬思ったようにして、吐き気を飲み込みながら無心になって清掃を始めた。
白っぽいマルチーズみたいな犬だった。
「今頃おまえの飼い主、車の中でヤってるよ。おまえもいつか人間になる?」袋に入れた血塗れた雑巾みたいな犬に向かって言った。
蛆虫が長靴の底で何匹も潰れてねばねばした体液と君のねばねばした体液が合わさってねばねば、ねばねば、ねばねばねばねばねばーネバーランドへ一緒に行こう。
即興歌を歌ってみたが、続きが思い浮かばなかった。
時計を見たら、もう2時を過ぎていた。あいつら何時までやってんねやろう。
清掃が終わり、スーツに着替えて犬の死体の入った袋やゴミや道具を持ってドアの外へ出た。
廊下から下を見たらマンションの下にジョウ君が車の前に立って煙草を吸っていた。
上から手を振って「終わったよ」と言うとこっちに気づいたジョウ君が疲れた声で「上に上がります」と言って女を連れて上がってきた。
女は無表情で頭を下げて「ありがとうございました」と気持ちのこもらない挨拶をして部屋に戻った。
俺が気になったのは、女が一度も俺が持っている犬の死体の入った袋を見なかったことだった。
階段を下りてるときに後ろから「何回ヤったん」と聞くとジョウ君は「結局できなかったんですよ、彼女泣き出して、それで、ソープ紹介したら、なんとか口でするから許してほしいと言うんですけど、もうみんな冷めてというか、彼女に誰も興味も持てなくなって、それでなんも結局しませんでした」と言って振り返った。何を訴えてる目なのか、読み取れない。
「三ヶ月のことゆうたんやろ?」と俺は聞いた。
「言いましたよ」と冷たく向き直りながら応えるジョウ君の背中を見つめて、縋り付きたくなった。
何の感情で縋り付きたいのか、ぜんぜんわからなかった。
少し元気を出して「荻原さんのまんこ見いひんかったん?」と言ったけど返事は返ってこなかった。
もうしゃべる元気もなかったのでそのまま無言で俺とジョウ君は別れて、それぞれの車に乗って帰った。
家に帰ると犬の死体を冷凍庫に入れた。明日、どっか良さそうなところに埋めに行こうと思った。
何回かそうやって犬や猫の死体を埋めにいったことがあるが、それは生きていた母親を小分けにして埋めに行ってるような感じがする。生きている時間を共にできない時間を少しずつ埋葬していくしかない。
もう腐敗させないと、埋めに行くこともできない。
シャワーを浴びて、上がったら3時半を過ぎていたが、髪を乾かさずに布団に横になって、電話をかけた。
眠っていて起こされたくぐもった高い声で「もしもし」と出た。
「眠っていましたか」と聞くと、「うん」と少女のように返事をした。
その後、だいたいは無言を一時間くらいして、何も言わず電話を切る。
その一時間の間、母親の呼吸の音や、寝息を聞いてから俺はいつも寝る。
32年母親は死んでると思って生きてきたが、実は生きてるという話を今年に入って俺の育った施設の人間から聞かされて、でも居場所が特定できず、五百万を借金して探偵に頼んで見つかったのが二ヶ月前、母親の名前と居場所と電話番号しかまだ知らない。会いに行くことが死ぬことより恐ろしいのは何故だかわからない。
一月くらい前に、月に20万払うからと言って、毎晩無言でいいから電話をしてほしいと俺は母親に頼んだ。
母親は40万ならいいと言った。4は不吉だから、50万払うと俺は言って聞き入れてもらえた。
どうしても払う額は俺が決めたかった。
人間の葬式費用が大体50万円で、毎月俺は母親を火葬してる。
毎月人間の死体を処理して火葬して、なんとか母親を火葬してる。
綺麗なままで、なんとか死んでほしい。
今日のあの女、たぶん20ちょいくらいの年やろう。
俺を産んだ母親と同じくらいだろう。俺は血がいっぱいついた汚いシーツにくるまれて施設の前に置かれてたんやって。初めて寝た男との間にできたんやって。そんなこと聞いてないのに母親は最初に話したときに俺にそう話した。ちょっとボケかけているんだよ。まだ56歳やのに。もともとちょっと頭おかしかったらしいけど、まともな人でも、あったらしい。今日のジョウ君も怖かったぁ。
カメノムシは死に掛けながら寝ていた。
緑色の夜が点滅しなくなって、俺は眠りに落ちていった。
次の日の夜、荻原の女のマンション前で、ジョウ君と一緒に女を待ち伏せた。
「何やってる女なん、あいつ」とエントランス前にある生け垣にもたれて缶ビールを飲んでるジョウ君に向かって聞いた。
「なんも話してくれませんでしたよ」と興味なさそうにジョウ君は応えた。
微妙に高い生け垣の出っ張ったところに無理な体勢で腰を下ろして首を猿みたいにかきむしって俺は言った。
「あいつ、犯してくれへん?」
ジョウ君は声に出さない「はっ?」っていう困った顔と大げさな首を前に出す動作をして笑い、俺をいやらしい横目で見た。
「わかった、これがいい、あいつをおまえに惚れさせろ、つまりこうゆうことだよ、あ~んもうジョウ君がいないとあたしだめなのぉ、傍にいてくれるならなんでもするからぁ、ソープでも何でも働くわよ、って最後逆切れな形でもオーケーだから、なんとか、そこをなんとか、して、とにかくソープで働かせられたらもうそれで給料払うから、来月」
ジョウ君は大きな息を吐いて「俺の責任って事ですか」と投げやりに言った。
「うーん、そうね」とジンの瓶を一気飲みして俺は言った。倒れそうだった。
「あの女、妊娠してるんですよ」とジョウ君がぼそっと言った。
「なにいぃっ」と俺は目をひん剥いてジョウ君の横顔を見た。クールな横顔やなぁ、おい、と思った。
「なんで昨日、それ、ゆうてくれへんかったん?」と聞くと「変にしんどくって、めんどくっさっくってしょうがなかったんですよ、すんません兄弟」と、ちらと俺を一瞥して言った。
俺は取り乱した自分を恥じらいながら「で、産むつもりなんやて?」と落ち着いて低い声で聞いた。
「それが、堕ろすつもりやって言うんですよ」
「なんやてぇ?」と俺はまた取り乱してまた落ち着き払ったように「なんでやねん」と渋い声で言った。
「さあ、で、堕ろす費用に困ってると相談されたんです」
「あほかっ」
「で、ソープを紹介したんです」
「だぼかっ」
「とにかくあの女、精神病んでるんです、見て気づきませんでした?無茶ゆうと、死にますよ」
「なにそれっ、全部俺の鈍さが原因で人を全員死に追いやりかねないよ、っていうみたいな言い方」
「そこまで言う気にもなれませんけど、もう今回は、諦めたらどないですか」
「おまえが払うんやったらな」
「僕も残念ながら金がなくて」
「ひとつ、仕事が上がってる」
「殺しですか」
「うん、100万、ある会社の元悪徳社長で今はほぼホームレス」
「100万やそこらで、毎晩悪夢に魘されるのは、もう御免なんですよ兄弟」
「わかるけど、じゃあ500万なら?」
「考えます」
「一千万なら」
「やります」
「800万なら」
「やりますね」
「依頼してんの、俺やねんけどな」
「それって、稼ぎにならないじゃないですか」
「うん、800万出したら、やってくれんの?」
「自分でやったらいいじゃないですか」
俺は生け垣から降りて、軽く放屁して言った。
「そこまで関わりたいと思われん人間やから」
俺は地べたに座って考えた。
凄まじい倦怠感に襲われ何も考えられなくなってしまった。
二時間以上待ってるけど女はまだ帰ってこない。
ぼーっとしながら「中絶費用ってどれくらいなんやろ」とジョウ君に聞いた。
「さあ、知りません」
「まあ100万もせんわな」
「そんなにはしないでしょう」
「50万もせんのとちゃう」
「2,30万ってとこじゃないですかね」
「安いもんやな、殺人費用が2,30万」
「2,30万で人を殺してくれる病院は良心的ですよね」
「良心的やないとやってかれん商売なんやろ」
「人を殺しても罪にならないですし、罪もない赤ん坊を殺して罪にならないのに罪深い大人を殺す僕たちが罪になるのはなんでなんですかね」
「そらやっぱり良心的やないからやろ」
「額の問題だったんですか」
「2,30万で俺らが殺しの仕事を喜んでやってみ、罪も軽くなるんちゃうのか」
「喜んでやってたら重くなりそうですけど」
「俺が言いたいのは、人のやりたくない仕事を俺らが軽い賃金でがんばってやってたらどこかで見ておられる神様か誰かがぼくたちの罪を軽くしてくれるんやないのか、とゆうてんねん」
「つまり犠牲精神で人をばんばん殺してたら罪が軽くなるってゆうことですか?」
「俺がやらねば誰がやるって思いで苦しいけれど人を苦しめたり殺してたら、神の刑罰の免除がそこにあるのかないのかって」
「どっちなんですか」
「だから考えてんねやんか」
「今考えてたんですか」
「おもぐっそ考えたけど、やっぱわからんわ」
「早いな」
「遅いなぁ、あの二人」
「あの二人って誰ですか?」
「せやから、あの女と女の腹ん中におるガキやんか」
「なるほど、子供のことも待ってるんですね」
「うん、ちょうガキのほうとも大事な話しようかなって」
「へぇ、おもしろそうですね」
疲れてへたれこみ俺の左隣で煙草を吸い出したジョウ君の吐き出す煙をけむたい顔で大げさに払っていると煙の中に女が見えた。女は赤子を抱いていた。言いようのない悲しみに襲われた。よく見たら女が大事そうに抱えてるのは鞄だった。
俺は立ち上がって、「おぎわらさん」と優しい声で呼んだ。
女は驚いたように振り返り、何も言わず慌ててオートロックのドアの鍵を差し込んでドアを開けて閉めようとした。
俺は走り寄ってドアに手を掛け、ドキドキしながら「なんかあったんですか」と怯えている女に向かって言った。
煙草を吸殻入れに入れながらジョウ君がやってきてにこやかな顔で後ろから「荻原さん、こんばんは」と言った。
「お電話がつながらなかったので、ちょっとできたらお部屋でお話を、少しよろしいですか」とまだドキドキしながらゆっくり穏やかに俺は言った。
女は変にびくついて、これほどびくついてる人間の部屋にわけのわからない男が二人上がりこむのはあんまりではないか、ここまでびくついてるのにはそれ相応のわけがあるが今それは話したくないというような顔で俺の顔を黙って見た。
「無理を言いに来たんやないんですよ、僕らにできることがあればと思って、荻原さんのご相談ももっかいちゃんとお聞きしたいと思て僕らやってきましたんです」
女はジョウ君のほうを見て「えっ」と声を上げ、「マジですか?」と俺を見て言った。
「マジです」と俺はマジそうに見える顔で応えた。
女は一瞬の間のあと、へらっと笑った。あほそうな笑顔だった。
「散らかってますけど」と言いながら女は階段を上っていき、俺はジョウ君を振り返ってにたりと笑った。
狭い部屋の中は本当に散らかっていた。足の踏み場もなくかろうじて布団の上だけが広く、三人は仕方なくそこに座った。
昨日、犬の死体があった場所にゴミや衣服などの物が散乱しているのに悲しみの苛立ちをおぼえた。
知り合いだったら殴り飛ばしていたかもしれない。犬の死体を埋めに行くのをすっかり忘れていたことを思い出した。
自分に対しても悲しみの苛立ちが湧き上がり、さっきからずっと尿意を我慢していたことを思い出した俺は恥ずかしそうに座っている女に向かって「あの、すんませんけど」と言うと、放屁の音が聞こえて、誰やと思ってると、どうやら二人の目線からして俺だったようで申し訳なさそうに「すんません、屁ぇこいてもうて」と言って黙って立ち上がると、女は体をのけぞらせた。
「すんませんけど、ちょっとお手洗い貸してもろてええですか」と俺は聞いた。
「どうぞ」と案内された便所で用を足しながら、少し飲みすぎてしまったなぁと後悔した。
便所から出ると、なにやら楽しそうな二人の笑い声が聞こえる、またどうせ俺の屁ぇがアタリメに大根おろし載せたものより臭いとかゆうて笑ってたんやろ、俺はいっつも笑い者、そう思ってると「ほな、ぱーって走って買うてきますわ」と言うジョウ君と廊下で行き当たって「何買うてくるん?」と聞くと「ちょっくらビールと宛て買うてきます、なんか欲しいもんありますか?」と訊かれたから、「そやなぁ、ほなカップヌードルのカレー味と、茶ァとか適当にビールとかぎょうさん買うてきて」と頼んだ。
部屋に戻ると女は片づけをしていた。ゴミを袋に入れるのを俺も手伝うと言って手伝ってると、おもむろに女は「昨日は、酔っ払ってたんです」と話し始めた。
「だからあんなことゆうてしまったんですけど、車の中で男の人と二人きりになると突然酔いがさめて、すいませんでした」と女は謝った。
「そうやったんですか」と俺は言うと、心の放屁をできないことの苦しみに襲われた。まず出せる金が5千円しかないのに特殊清掃業に電話してきて、だいたいのかかる費用も訊かずに呼んだことから謝り倒すべきであることを、いちいち俺が言ってやらないと駄目なのか。
昨夜から心に臭いガスが溜まってジンをストレートで一気飲みしなければやりきれなかったのだよ。心のガスで頭が膨張している。死体は腐ってくるとガスで膨張してしまいには破裂してしまうんだ、俺の頭が死んでたらもうそろそろ破裂してもおかしくないんだよ、俺の心が死んでたら、心が破裂したら、後は肉体だけで生きていくしかないけど、肉体だけで生きていくというのは恐ろしい世界で、恐ろしいことで、その恐ろしさを感じるのは俺ではないけど、あほなお前でもないんだろう、そんなことでどうやって俺が死に切れるの、俺はそもそも死にきりたいの?だいたい死にきるって、どうゆうことなのかを俺は無意識に女の腹の中にいる胎児に向かってしゃべっているようだった。あと何日で殺されるのか、胎児はそれをわかっているような気がした。生きて世界を知るというのは何も腹の外へ出てから始まることでもないだろう、胎児が今暮らしている世界というのは俺たちの暮らしているこちらの世界より価値が劣るのだろうか、まだ母親の腹の中しか知らないから簡単に殺されてしまうんじゃないのか、それはこちらにいる人間があちらの世界の価値をこちらと同等に扱っていないということだ、腹の中と外の住んでる世界というものに勝手に優劣をつけているからだ。
昨日の朝方、眠る前に母親の寝息を電話越しに聴きながら話したことを思い出す。
母親は寝息を静かに立てて眠っていた。はずだ。
俺は安心してできる限りに声を抑えて話しかけた。「ちょっと前にあったニュースなんですけど、インドかどっかで若い母親が子宮外妊娠して体内で赤ん坊は死んでしまって、死んだ赤ん坊を取り出す手術が怖かったからとかでそのままほったらかしにしてて、36年くらい経って腹が異様に痛いから調べてみたら石灰化した塊に包まれた綺麗な胎児の骨格が発見されたっていう、それ見て、僕は羨ましくってしょうがなかったんです、ものすごい嫉妬に駆られて、今でもそれ思い出すと、腹が異様に痛くなって胎児の骨でもあるんちゃうかと思います。僕が羨ましいのはそんな風に胎児の骨と36年間一緒に暮らしたかったからではなくって、胎児の骨に嫉妬していたと言うと頭おかしいんちゃうかと思われるかも知れませんけども、まぁ胎児は死んでいて、その心うちは無だとは思うんですけど、こう、客観的に見てと言いますか、どうしても外から見てまうんで、俺にはどうしても、その胎児が不幸のようには思えんかったんです、なんか恥ずかしいから回りくどい言い方になってますけど、率直に言うと、そんな36年も母親の一番傍にっていうか、もう母親と一体みたいな、一部みたいな形で一緒におられて、ええなって思ったんです。もう、戻れないより、ずっといいなって。今こうしてあなたの寝息を聴きながら、すぅーって意識が遠のいて自然に眠っていくときがあるんですよ、まるで、そのときって、お母さんの胎内で眠っていたときと同じ感覚のように思うんです。そんときだけ、本当に幸せなんです。それ以外のときは絶望感が離れることがないので、こうして無理言って毎晩頼んでるわけなんです。僕、生きてる価値ってわからないんです。お母さんの外で生きることの価値が。だからあの胎児なんか、普通に見たら確実に死んでるだけにしか見えへんのやろうけど、俺から見たら、逆な感じがするんです。本当はこの世に、こっち側の世界に誕生した瞬間に、人は死ぬんちゃうかって、お母さんの内におった時生きてたのに、死ぬためにお母さんの外に出されるんやないのかって、生命の重さというか、どっちも命やったとしても、生きた命はお母さんの中にしかいなくて、外に出された瞬間、死んだ命になる、命の重さや価値というよりか、生きた命と死んだ命に分かれてる気がするんです。さあこれから生きていくぞって時に、もう死んだっておかしいけど、確実に僕は死んだよなって感覚があります。あの瞬間、って覚えてませんけども、俺死んだなって感覚がずっとあって、たとえ生きた命と死んだ命に分かれてても、その価値は同等という気がします、でもその命がいる世界の価値が違うんです、僕はこっちの世界に生きる価値がわからないんですよ、なのになんで生きてるのか、死んだ命でも命は命だから生きてるのではなくて、こんなこと言うとほんま気持ち悪がられそうですが、あなたがまだこっちにいるから、向こうよりは近いだろうあなたのいるこちら側の世界に一緒におりたいだけなんですよ。あなたも死んだ命なんです、そういえば身毒丸って戯曲で『お母さん、もういちどぼくをにんしんしてください』っていう台詞があって、すごく好きな台詞なんですけど、それがどうしても無理だとするなら、僕はこう祈ります。お母さん、あなたをぼくはにんしんします」
なんや、あちらとこちらの世界の価値に優劣をつけてるのは俺だった。逆の優劣やけども。すっかり忘れてしまっていた。はははははと俺は心の中で笑った。またはぽすぽすぽすぽすという感じで心の放屁をしてガスがいくらか抜けていった。
 ジョウ君が帰ってきて、何故か楽しそうな顔をして。意味の解らない飲み会が始まった。女は普通にビールを飲んでいる。自分たちが飲んでいる以上飲むなと言うこともできない。子宮の中が安らかな場所なんてただの妄想で願望かもしれない。俺が腹ん中にいたときも母親は酒をがんがん飲んで煙草をすぱすぱ吸っていたかもしれない。俺は胎内でのた打ち回って、地獄だとつぶやいて絶望していたかもしれないわけだ。早く産まれたい、早くこの地獄から抜け出したいと思って、やっと出て来れてほっとしていたら邪険に扱われ怪訝な顔で邪魔者扱いされ、ろくに乳ももらえず糞のついたケツも拭いてはもらえず挙句の果てにリサイクルできる不用品のごとく捨てられる。俺がいったいなにをしたとゆうのか。しかし俺はまだ産んでもらえただけマシだとゆうのだろうか。邪魔者扱いされたまま母親に殺されるほうがずっとつらいんだと缶ビール片手に海老煎を食っている女の腹ん中にいる赤子が俺に訴えているような気がして、ビールを飲みすぎた俺はいてもたってもおれなくなり、突然立ち上がってザ・ぼんちのぼんちおさむの物真似をやった。一応そのときの話題がぼんちおさむに関係していたであろう話題であったと思ったから俺はやったはずだが、怒った顔をして俯き足を踏み鳴らしながら奇声を上げていると、ジョウ君は後ろに倒れてげらげら笑っていたものの、女は素に帰ったような顔になってまた怯えていた。
 俺は早くも少し限界に達しかけていたので「すんませんけどちょっと横になってもええですか」と聞いて女の困ったようにうなづくのを見ると邪魔にならないように布団の端に小さく丸まって目を閉じた。ごぼう茶が流力を伴って狡猾な振りをしているのは議会に出場しない規則正しいシトロンが関係しているらしい。それは軍視力の永遠の軍事力だからエリマキトカゲたちは青い木苺のおかげで改心できたんだ。心の中でそう知らない誰かと真剣に対話しながら俺は意識が遠のいていった。
 どれくらい眠ったのか。女に話そうと思っていた事をもうすべて夢の中で話し尽くしてしまったようだった。
目をゆっくり開けると、薄暗い中でジョウ君と女は裸になって絡み合っていた。一瞬プロレスの技をジョウ君がかけているのかと思ったがそうではなくて複雑なよく春画にありそうなどうなってるのかよくわからない絡みかたで俺はそれをぼんやり眺めながら、こうして間近で見ていると、まるで苦しい出産の姿を見ているのとまったく変わらない思いになり、もしかして男と女の交わりというのもそもそも苦しいもので、生きてるだけでいろいろと苦しいのに、男と女の生殖行為まで苦しいものであってはほしくないという多くの人間たちの願いによって半ば無理やりに、これは実は気持ちがいい感覚なんだと信じ込もうと何千年とかけて信念を貫いてきた結果、思い込みの作用によって本当に気持ちのよいという錯覚からの快楽が生まれてきたのではないか、そういえば二十二のときに付き合った年がだいぶ上の女が自分はずっと不感症で性交で感じたことが一度もないと言い張って、この女を感じさせることはできないのかぁ、と悲しんで、一度目の事に及んだあとに、女が初めて感じたと抜かしたときのあの幻滅感は、快楽というものが錯覚であると悟っていた賢い女と思っていた女がいとも簡単に錯覚に陥ってしまったことによる幻滅感であったのかもしれない。
 こんな状況じゃ起きることもできないし、もう少し眠ろうと思って俺は目を瞑った。
次に目を開けたとき、俺は自分の部屋で寝ていた。昨日のことを思い出す。昨日かなり飲んでねたから、きっと起こそうとしても何しても俺が起きなかったのだろう。だから仕方なくジョウ君は俺を負ぶって部屋まで届けて寝かせてくれたんだろう。しかし外が暗いのは俺はいったい何時間寝ていたんだ。それもよくあることだ。それだけ寝たおかげで頭もすっきりして二日酔いも抜けたようだ。良かった、何も、何も気に悩むこともない、怖いことも何もない。そう思った瞬間、はっと俺は思い出す。しまったぁっ、レンタルの返却日、確か今日までだったんじゃ、あのわけのわからん映画、確か今日返さないと延滞料金を取られてしまう、それはどうしても避けたい。絶対今日返しに行かないと、って今何時?と時計を見ると日が変わる三十分前だった。俺は飛び上がって起きると着替えてレンタルビデオを持って部屋を出た。コーポの階段を下りていって地下の階段を降りていく。地下五階にレンタルビデオ屋はあって、急いでるからなのかいくら降りてっても着く気配がない、気ばかりが焦って早く降りようとするのだが、足がもつれたようになり早く降りられない。ふと気づくと服の下から血が流れてきて、俺はやばいなぁと思った。血が流れてるのを見られると非常に厄介なことになる。しかし隠す術も見つからずに俺はとにかく今日中に返却せねばという思いで階段を下りていった。やっと着いてレンタルビデオ屋に入っていく。そこはちょっと変わったビデオ屋でものすごく広くて、レジの前なんかは銀行と同じように椅子が設置されていて、来た人間から番号札を取って番号を呼ばれるまで待たなくてはならない。その日も客は多かったが、椅子に座ると椅子に血がつくので俺は立って待っていると案外早くに番号を呼ばれ、広いレジカウンターの前まで行った。レジの前で立っていると血が袖口からぽたぽた垂れて、レジの店員の顔を見るとまだばれていないようだった。ビデオをカウンターに出すと返却するには印鑑が必要だと言われ、俺は、しまったっ、持ってたっけ、と上着の衣嚢の中を血だらけの手で探した。汗と血が混ざり合ったものが体中から垂れてきて、血と汗でぬるぬるになった手で印鑑を掴んだが、こんな手で出すことができるはずがない、俺は動くに動けず、つるつるした床に血と水が混ざって垂れていくのをただ見下ろして、借りた映画は本当に奇妙でならなかったことを思い出し、その映画がどんな映画だったか思い出そうとすると思い出せず、その映画を思い出せないのは、その映画というのは今から自分が経験していかないと見ることのできない映画だからで、俺はその映画を見るのは恐ろしいと感じた。その恐ろしいと感じた瞬間に俺は映画の世界にいるようだった。どんな映画かはもう決まっているのに、俺がこれからその自分が登場人物になって経験するように映画を見ていかないと映画は見ることができないし、何故その映画を見なくてはならないか、また俺は借りたのかもさっぱりわからなかった。主役であるかどうかもわからなかった。ただ世界は変なことになっていて、変なことになっているのはわかるのに、変ではなかった元の世界がいったいどういう世界だったかちっとも思い出すことはできなかった。俺はその映画を見たこともないはずなのに見るのは恐ろしいと感じたのは、たぶんそれは恐ろしい映画であると直感で感じたからで、その瞬間に飛ばされた俺が今いるこの世界は、なんだか見たことがあるような世界だった。見たことがあるような気がするだけで、それがどこなのか、やっぱりまったくわからないし思い出せない。ただもう、気味が悪いこと確かだけれども、心地好くも、ある、って感覚自体が奇妙なことこの上ないが、まぁ、そんな感じである。俺はこの世界って俺がずっと望んでいた世界じゃないのかと俺に問うてみたが、でもやっぱり気持ちの悪い世界なんじゃないかという気持ちは拭い去れるものでなく、とにかく俺の前には道があって、一つだけ道が続いているので、俺は奇妙で奇怪な道を歩き出した。帰りたい気持ちもなければ進みたい気持ちも特になかったのだが、じっと同じところにいても退屈だったからとりあえず進むしかないという思いで進んでいった。ずっと景色の変わらない道だったからちゃんと進めているのか疑った。しかし歩き続けているとだんだんと俺は思い出してきた。そうだ、この道の上下左右のこの床と壁と天井の赤っぽくてむにむにしたやつってのは、確か肉、みたいなやつだな。肉がなんなのかちょっと思い出せないんだが。まぁいい、とりあえず今は肉なんだということにしておけばいい。何も思い出せないんだからしょうがない。そうして歩いていくと、景色は初めて変わった。道が二股に分かれていて、何の道標の札も立っていない。ってことはどっちがどこに向かうかわからない。その前にこの世界のすべてがわからないのだが。俺は何も考えず、右のほうを選んだ。なんとなく、右に行きたいと意識か体か、もしくは両方かが思ったのだと思った。そこで俺は、体・・・・・って、なんやったっけ?と思った。憶えているくせに忘れているというような感じだった。ちゃんと憶えているが一時だけ忘れているだけかもしれない。右の道へ進む前は恐ろしいという感覚にも慣れてきて結構楽な感覚だったのに、右の道へ入った途端、嫌ぁなものが胸の中に減り込まれて来るようで、戻ろうかと思ったが、後ろを振り向くことができなかった。できなかったというより、俺はしなかった。左に行っててもたぶん同じだろうとも思った。たぶん、無意識にこの道入った途端嫌ぁなものがやってきたりして、なんてな、まさかな、でもやってくるかも、というのがあったからこうなったような気がして、だからそういうことならやっぱりどっちに進んでもおんなじなんだ。そう思って俺はこの嫌ぁな感覚を受け入れることにした。特に何も思考することなくただ歩いて進んでいて、ふとずっとあるこの嫌ぁな感覚は、これは不安っていう感覚じゃなかったかと思い出した。不安っていうのは安心の不在というもので安心のあったところに安心がなくなって起こる感覚のはず、ということは俺はそれまで安心を感じていたということになる。いつ感じていたかと思い出す。ああ、あの時かな、と俺はこっちの道に入る前、比較的楽な気持ちであったときのことを思い出してみた。しかしよく思い出してみると、違うだろうという気持ちになった。あの感覚はついさっきのちょっと前の感覚だから良く憶えている、恐ろしい感覚に慣れたからといって恐ろしくなくなったわけではない、恐ろしさを感じながら安心することなどできないだろう、よく憶えていると言いながら安心はあの時だったかと間違えて思いだした俺を非難する人間がいないと思って、俺は俺以外の存在を思い出した。
 その瞬間に、景色はすべて変化した。ものすごく広い世界になって、なんかこんな世界も前にいたことがあるような気がするなぁと俺は思った。あまりに広すぎて、どこに向かって歩いていけばいいかわからなく、ちょっとの間、俺は一歩も動かず立ちすくんでいた。
 こんなに広いのに、ここに俺だけしかいないことを俺は訝った。しかしそれはこの世界に俺だけがいないことに思えて、世界に対する訝かしみではなく、自分に対する訝かしみであるようだった。苦しくはなかった。ただどこへ向かって歩いて行けばいいか俺は困り果てた。呆然と突っ立ちながらも、よくよく世界を見ていたら、道はいくつかあって、家屋や店がいくつも並んでいた。白っぽい灰がかった世界だった。とりあえず目の前に道があるからその道を進んで歩いていった。やっぱり人はどこにもいる気配もない。何も考えず歩いていって、店か家屋の前に置いてあるものの前に俺は立ってそれを見た。最初、まったくわからなかった。でもそれを見ているうちに、俺はようやくわかったようで、ものすごくすっきりと恐怖と絶望の中で途方に暮れてそれを見た。それは見れば見るほどおぞましさと嫌悪を抱かせる醜い肉の塊だった。俺はそれがちょうど雪だるまの形に似ていて、家屋の前に置いてあることからも雪だるまのような存在としてここに在るのかと思ったが、それは明らかに生きていた。俺がようやくわかったのは、今まで歩いてきた道も全部地獄のような世界だということだった。
 俺はこの世界に来る前の世界を思い出そうとしたが、憶えているのはレンタルビデオ屋にビデオを返しに行くため降りている階段で服の下から血を流している自分の姿からしか思い出せなかった。あの世界が俺が元いた世界だとして、あの世界に帰りたいという気持ちも湧かなかった。
 俺は肉だるまから遠ざかり、適当に道を決めて歩き出した。
 火山灰の降り積もったような広い坂道を登って行くと、小さな村があり、ものすごい数の人間がいて、子供から老人まで皆がみな疲れきった顔をしている。みんなが並んで何かを持ち帰っている。見るとどうやら小麦粉を分けて貰ってるようで、並んでいる爺さんに話を訊いてみると深刻な食糧難で政府が雇った殺し屋が人類削減のために殺しにやってくるから、ここにこうしてみんなで避難してる、もう自分らしか残っていないということだった。みんな優しい人たちで頼みもしていないのに俺も小麦粉を手渡された。腹は減っていなかったがこれどうやって食えばええんやろうと思って、小麦粉をもらえて無邪気に喜んでる子供たちの姿を見て、ぼーっとしていると向こうのほうから突然大勢の悲鳴が聞こえて見に行ってみると、ぶんぶんすごい速さで回転した人間によって多くの人たちがこまくちゃにされている。回っていた人間が止まると、頭から下すべての体の表面から鋭利な刃物が突き出ていて、回転しながら人に近づくことで人を瞬時にこまくちゃのわややにすることができるというわけだ。ものすごい斬新な殺人兵器である。一瞬で殺すといってもやり方が残酷にもほどがある。俺は自分も殺されることに慄きながらも逃げずに黙ってその様子を眺めていると、回転していた男が回るのをやめて俺に向かって近づいてきた。恐怖のあまり固まって近づいてくる男の顔をただ見つめていると、男の顔は知っていた。俺のよく知っている男で、名前がそこまで出掛かってるのに出てこない。あ、なんや、ジョウ君やんか、と思い出して言おうとしたら、男が先に話しかけた。
「お前は助けてやる、お前は今から俺の人質になるんだ。何でも言うことを聞け、わかったな」
 ジョウ君はどうやら俺のことを憶えてないらしい。でも助けてもらえるなら何でもいいとほっとしてジョウ君の言うことを何でも聞くことにした。「何でも聞く」と答えて「それじゃ死ね」と言われて「それはちょっと」と言うと「何でも聞けないなら、じゃあ殺す」と言われて殺される可能性があるかどうかを考えてみて、ないなと思って「なんでも聞く」と俺は答えた。
 それからも人を殺しまくるのかと思いきや、ジョウ君は「じゃあ行くぞ」と言って歩き出した。俺はジョウ君に着いて行った。
 どれくらい歩いたのか知れない。俺とジョウ君はベンチに座っていた。俺の左手がベンチの上に置かれていたジョウ君の右手に触れると、ジョウ君は手をさっと引っ込めて、顔を赤らめて俺を睨み、「お前はなんて気色の悪い顔なんだ。お前の顔を見ると吐き気がする」と言った。俺はなぜか少女のような気持ちになって素直に落ち込んだ。するとジョウ君は立ち上がって、「ちょっとやってくる」と言ってどこかへ行った。俺は当然、ちょっと殺ってくるんだと思って、もう罪のない人間たちを殺すのはやめろと言いたかったが、言うと殺されそうだったので言えなかった。
 ふらふらそこらを歩いていると蛸煎屋を見つけて持っていた小麦粉で蛸煎を焼いてもらってぱくつきながら高い土手下に広がる一面の黄色い麦畑を眺めていると、そこでジョウ君が回っていて、うわああああぁと大声で叫びながら回転して麦を刈っていた。普段はクールな顔付きで感情的になることも珍しいがジョウ君の精神状態はもうだいぶキてて、ああして回転して何かを切り捌くことでしか自己内部のぴゅあなものを保つことはできず、泣き叫びながら回り続けているジョウ君を上から眺めて、いい光景だと俺は心を揺り動かされる思いがした。
 麦畑から帰ってきたジョウ君は少しすっきりした様子で「金がねえから仕事を探すぞ」と言ってバイトを探し始めた。いくつもの店に顔を出し、仕事はねえかと無愛想に聞き回って、ことごとくすべてが断られた。サイダーの瓶のケースを店から車に積み込むだけのバイトも断られた。そうして二人で疲れてベンチに座り、陽が落ちかけてきた頃、俺はぽそっと「ずっと欲しかった箒が欲しい」と言った。
 そこで目が覚めた。左側にはジョウ君と女が眠っていた。鳥が鳴いていて、磨りガラスの向こうは朝焼けだった。
 終わりのない映画を見ているようだった。自分が体験しているのに自分から少し離れたところから自分を眺めている感覚が夢にはある。それとも本当に体験しているのは離れたところにいる自分なのだろうか。生きる時間の価値というものが現実の自分より夢の中の自分のほうがあるように思った。俺は携帯電話の着信履歴を見た。依頼者からの電話はまだなかった。俺を殺してほしいという依頼がまだ入っていなかった。俺はまだ夢を見ているような気持ちで、そのとき電話が鳴ってあわてて発信者の名前を見た。名前はなく知らない番号からだった。
 こんな明るい日の射し込む朝の最初の電話は殺したやくざの処分依頼の電話だった。人数は二人、俺は隣で子供のような顔で眠っている女とジョウ君の顔を眺め、心を無にしてジョウ君の肩を揺らして起こした。寝惚け眼のジョウ君に「仕事入った」と言うとジョウ君は声に出さない「はい」と口で言いながら重そうに身体を起こしたかと思うと起き上がって女の寝顔を一瞬見てから、しゃきしゃきと動いてトイレで用を足したり顔を洗ったりしてテーブルの上にあったレシートの裏に番号とジョウと名前を書いて、さわやかな顔で「兄弟、用意オーケーです」と言った。
 あ、そうゆうこと、そうゆうこと、そうゆうことね、きみたち。と思ってそのことに関して特に今は何も言いたくなかったので何も言わないようにしていたが、車に乗っていると、ふつふつとジョウ君に対する非難の声が自分の腹と脳内に沸き起こってきて、俺は言った。
「おまえさぁ、妊娠してる女とやって気持ちええか?」
 するとジョウ君はいつもの「は?」という顔をして「やってませんよ」と言った。俺は横で運転するジョウ君の横顔を見つめた。嘘を付いてるような顔にも嘘を付いてないような顔にも見えた。嘘だった場合、これ以上嘘をつかれるのは傷つくので俺は何も言うのが嫌になってもう何も言わなかった。もやもやとして車のパーツをひとつずつはずして解体していきたい衝動に駆られたが、そんなことをするとジョウ君がキれるのでやめておいた。
 代わりといってはおかしいと思うが、仕事場に着くと、ちょうど死体が二体あったので、それをジョウ君と一緒に持ち運びやすいように解体していった。
「もう持ち運ぶの重いしめんどくさいからバイタミックスでガーってしてトイレに流したいな」と言ったら、ジョウ君が「バイタミックスってなんですか?」と訊くので「ミキサーのでっかいやつやん?よう知らんけどスタバが愛用してるっていう噂か何かの、でかい氷とかでもガーって砕けるんやて、うち持って帰ったらスムージーとか作れるし」と教えてあげた。
 ジョウ君は「それを持ち運ぶのもめんどくさいじゃないですか」と言った。
「ほな、俺あしたからスタバで働くわ」
「なんでですか」
「で、従業員みんな帰ったあとにこっそりと死体を持ち運んで、ガーってやるねん」
「結局、持ち運ぶんですか」
 玄関で見張っていたやくざのおっさんがやってきて「しゃべっとらんではよせえっ」と怒鳴って解体された死体を見てオエッと言ってげろを吐いた。俺たちはせっかく気を紛らわして心を無にしようとしてしゃべってたのに、やくざが吐いたのを見て、一気に吐き気がこみ上げてきてジョウ君も吐いた。俺は何とか食道の手前で抑えられて吐かなかった。
「いくら金のためやゆうて、こんなえげつない仕事ようできるなぁ」とやくざのおっさんは言った。
 人をもののように殺しまくってるようなやくざに言われたないわ、と俺は思ったが言わなかった。でもこうして人を殺すことはできるが人を解体するのが苦手なやくざたちのおかげで俺たちの仕事がある。
 やくざがまた玄関に戻った後は豆乳プリンについて話しながら解体して、解体した死体をぜんぶ袋につめて、あとは後片付けと清掃に励んだ。
 死体の入った袋をぜんぶボックスカーの後ろに積み込んで、マンションに戻って賃金をもらった。解体と清掃と処分で五十万円と言っていたが、安すぎて変に思ったのか、それとも一人分五十万円と思ったのか「ごくろうさん」と言われ百万円もらえた。
 処分だけ承る業者があって、一人分十万円でやってくれるその業者に頼むことも多い。今回どうするとジョウ君に訊いた。「僕はいけますよ、兄弟」と返ってきたので、そしたらこのまま処分しに行こうということになった。
 時間は午過ぎで空はよく晴れていた。
「荻原さんの名前ひらがなで、かなで、ってゆうんですよ、可愛い名前ですよね」
「ふうん」
 解体した死体とのドライブ中に会話したのはそれだけだった。
 できればこんな仕事は誰かに代わってもらいたい、できればこんな仕事は。金さえあって、他の人がやってくれるなら。そのほかの人もたぶん同じように思っている。
 いつもの焼却場に使わせてもらってる人気のない場所の古い廃屋の倉庫の中に死体を持ち運んで、二つのドラム缶の中に死体を入れて灯油流して、さあ今から焼こうとしたとき、電話が鳴った。
 出ると屋根裏で大量に腐っているハクビシンの死体撤去および清掃の依頼で、今すぐに来てほしいとのことだった。今すぐですか、うーん、と言ってると今すぐ来てくれたら二十五万払うと言われた。場所が結構近いし、俺は今すぐ向かいますと言って電話を切った。
「ここは一人でやっとくから、ハクビシンのほうやってきて」とジョウ君に頼んだ。ジョウ君は嫌そうだったが、「早く行って来い」と言ったのでしぶしぶ一人で車に乗って依頼先に向かった。
 一人で死体を処分するのはこれが初めてだった。俺は倉庫の戸を閉め切ってマスクをして死体に火をつけて蓋を閉めた。肉の燃える音がして煙が蓋の隙間から出てきたので、マスクをはずして倉庫の外へ出た。周りは土手になっていて、草がちらほら生えている土手の壁面をちょうどいい感じに椅子代わりになる伏せた籠の上に座って眺めた。いつもは車の中で待ってるが、車がないので外で待つしかない。こうゆうとき禅でもやっていれば時間はあっという間に過ぎるのだろうかと思った。生きていてもしょうがなかったであろうチンピラ二人の死体を生きていてもしょうがないであろう男が焼いている、そのような無常が究極になって、耐えられなくなったとき、人は禅などをやって、悟っていくと言ったのは誰だったか。俺か。こんなことを考えているより、ああ肉の燃える音を聞いていたい、聞きたいなぁと思ったが燃やしてる側にいると一酸化炭素中毒になるので、無理だった。また無意識に着信履歴をチェックしていて、そこに自分の名前を探していた。本当は今焼かれているのは自分の死体なんじゃないかという錯覚に陥った。焼いているのは実は他人で、本物の俺が焼かれているのではないか。本物の俺を何度も解体したり焼いたり、または腐敗した自分を目にするために俺はこんな仕事をやっているのかもしれない。こんな仕事はできたら代わってもらいたい、でも俺が他人なら誰がやっても同じことになる。俺が他人をやっている時点で俺という他人がやるかほかの他人がやるか、誰がやっても同じじゃないのか。結局他人がやってることじゃないか。俺がやってることはぜんぶ。
 ビーフストロガノフが食いたい。約一時間後に俺はそう思っていた。辺りはもう日が低く傾きかけていてビーフスト路ヶ野夫とはなんなのかを俺は考えていた。その路にはある奇妙な噂が代々語り継がれていた。どんな噂かというと、その路をビーフを積んだ車で走ると必ずエンストして止まってしまうという噂で、ポークやチキンでは止まらないのにハンバーガーなど調理したビーフであっても、またはビーフとポークとチキンの混ざったものであっても必ず止まってしまうため、その路はビーフストップ路、またはビーフスト路、最近ではビースト路と呼ばれていた。何故ビーフだとストップするのか、原因を探っていた近所に住む一人のビーフ好きの男がある日、そのビーフスト路で一人の老人に出会う。老人はまだ男が何も訊いてもいないのに話し出した。「時をさかのぼること三百何十年ばかしの頃、ある牛飼いの若者と村の娘が恋に落ちおった、娘の家はひどく貧乏で酒浸りの父親と二人暮らしであった、父親はそれでも娘を可愛がり、相手の男の想いの強さをどうして知ることができるかを考えた、父親の酒癖はそれは悪く、村の者たちはまじめな若者の将来を案じ、散々に話し聞かせてみたものの、若者は聴く耳を持たなかった。村の者たちはやがて心配して何を言ってやっても聴かない若者に腹を立て、今度は娘の父親の耳に言ってやった。男にとって最後に大事なのは嫁よりも仕事だ、あの若者もしょせん嫁が仕事に差し支えるようになりゃぽいと捨てるだろうさ。父親はそれを聴いてよけいに不安になり、ある晩、若者を家へ呼んで言った。おまえの持っている牛をぜんぶ、連れて来い。若者は素直に、はい、と応えて三十頭もの生まれてすぐほどの子牛からよぼよぼの老牛まで一頭残らず連れてきた。娘がちょうど仕事から帰ってきて何事かと父親に訊くと、おまえもよく見ておけ、と言う。父親は茶碗で浴びるように酒を飲んで若者に言った。「この牛をぜんぶ目の前で焼け」娘は大声を上げて泣いたが「それが嫌ならば娘はやらぬ」と言う父親に若者は「わかりました」と言って、手持ち行灯の火を藁につけて、それを牛に被せて牛を一頭ずつ燃やしていった。牛はみな牛同士で繋いでおったので暴れ倒す牛は互いにぶつかり犇めきあい、縄は絡みに絡まって崩れ落ちひとつの大きな牛の塊となってものすごい鳴き声をあげながら燃え盛った。その騒ぎに飛んできた村の者たちの顔を若者は見た。誰の顔も醜く赤い火に照らされて揺れて笑っているように見えた。その瞬間、若者は火の塊の中に入っていって牛たちの縄をすべてほどいた。すると燃える牛たちは狂ったように四方八方に走って行き、村の者たちと父親に体当たりしてみな燃えていった。気づけば娘も燃え盛っていた。すべて燃え尽くしたかに見えた。ふとうしろを振り向けば一頭の燃える牛が正面を向いてじっと突っ立ちながら静かに燃えて自分を見つめていた。若者はそっと燃える牛を抱き締めると一緒に燃え尽きていった。そのときの牛が燃えてゆく匂いはまさにビーフの匂いであり、調理されたビーフの匂いにさまよう魂たちは敏感なので、どうしてもビーフの香りが漂うと狼狽して、車を止めたくなってしまうようじゃ。魂たちも無意識にやってしまうことなので、別段悪気があるわけじゃなく、できるならばこんな意味のないことはしたくないと思ってるようじゃよ、そんなことよりも早く成仏したいようじゃ、ビーフの香りを嗅ぐと現世の未練を思い出して成仏しづらくなってしまうので、腹も立ってることは確かということらしい。そうゆうことじゃからできたらポークかチキンにしといたらええんじゃないかの、じゃ、わしはこれで」そう言うと老人はビーフスト路ヶ野夫の下り道をゆっくりと降りていった、という話じゃ。
 考えつかれてぼーっとしていると、見慣れた深緑のバンが坂を下りてきた。
 ほっとしていると、車から降りてきたジョウ君は妊娠していた。と思ったら膨らんだお腹から何かを取り出して、俺の目の前で見せた。
「これ、ハクビシン?」
「そうです、屋根裏の隅っこでひとりで怯えてたんで持って帰ってきたんです」とジョウ君は嬉しそうに言った。
「どうするん?こいつ」渡されて小さなハクビシンを片手で持ち上げるとキュルルーと弱々しく鳴いた。
「いらないですか?」
「いらないって、こいつ食うん?」
「まさか、飼わないんですか?」
「飼うって、どうやって飼うん?」
「さあ、でも鳴き声もうるさくないし、おとなしいから飼えそうですよね」
「俺は嫌やって、腐らしたくないし」
「じゃあ、僕が飼います」
「やめとけって、腐らすやろ」
 少し間を置いて「誰かと同居すれば、大丈夫ですよね」とジョウ君は言った。
「誰かおんの?」
「探してみようかな」
 二十五万も一人で稼いで来てくれたジョウ君を車で休ませてあげると俺は一人で大量のハクビシンの死体をもう木炭状になっているドラム缶の中に入れてまた火をつけた。
 辺りは薄暗くなってきて車で焼けるまで待っていると腹がぎゅるるーとなった。親の鳴き声かと思ったのかジョウ君に抱かれているハクビシンの子がきゅるるーと鳴いた。ジョウ君は疲れて眠っていた。
 焼けた死体たちを山奥に埋めに行く途中の高速道路から遠くに夜景が見えた。
 夜景は俺の目に見えなかった。それか、夜景しか俺は見ていなかった。流れてゆく夜景の中に何も映っていなかった。
 山を車で登っていく途中雨が降ってきて、土が軟らかくなってくれるのをただ喜んだ。山は上へ登って行くほど狭くなって対向車が来るたびに雨でずくずくになっている崖すれすれまで車を寄せなければならない。寄せるたびに死の淵を彷徨う。崖の下がほぼ確実に死だろうということはわかるが、俺たちの車は死を乗せていて、死を乗せた車が死へ落ちていくのはどう考えてもおかしいという気がした。俺たちはもう死に落ちることもできないんじゃないかと小さいハクビシンを抱いて眠っているジョウ君の横顔を見て俺は思った。どこへいくんやろう。対向車のヘッドライトの奥が真っ暗だった。
 車を停めてジョウ君を起こした。つなぎの清掃着を渡して黙々と二人で着替えたら車を降りた。ライトと死体の入った袋とショベルを持って二人で山の中へ入って行く。夜の山の中は巨大な死体のようで死体の中に死体を葬ることで死体は生きている気がするから、夜の山という巨大な死体は死体を待っている、死体を持ってくる俺たちを待っている。俺たちも死体と認識しているかもしれない。実は俺たちのほうが死体なのかもしれない。夜の山が待ってるのは俺たちという死体。死体を埋めていると死体はいつも俺たちを見上げている。でも俺たちは見下ろしてはいない。俺たちは何も見ることなく埋めている。何も見ていないのに死体からいつも見上げられている。それはおかしい、なんで俺たちは見ていないのに死体が俺たちを見ているかわかったんだ。ああ、そうか、と俺はわかった。見上げているのは俺たちなんだ。俺たちは死体を見ていない。見ていないんじゃなく、見えないんだ。あいつらには俺たちが見えない。俺たちは見上げている、いったい何を見上げているんだろう。何も見えないのに。
 いったいなんでこんなことをしているんだろうといつも思う。金のためにやっているという気はない。金が必要だが、それは生きている前提の話であって、生きている実感もないのに金が必要だと感じること自体が希薄だから、結局金も必要じゃない、命も必要じゃない、俺も必要じゃない、でもこれからも死ぬまでこんな生活をやり続けなくてはならない、誰に押し付けられたわけでもないのに、それがなんでなのかいくら考えてもわからない。生きる気がないから死ぬ気がないのは当然なんだろう。生きてるのがおかしいわけじゃない。生きる気がないから、生きている。死ぬ気がないから、死んでいる。
「やっぱり死んでる」
「え?」と土の表面をショベルで叩いていたジョウ君が振り返って聞いた。
 俺は雨がだらだらに滴っているジョウ君の顔を見た。生きいきとした綺麗な顔をしていた。死体は俺だけなのか。
 もう俺は山の外へ出ないほうがいいんじゃないかと思って俺を置いて一人で帰ってもらいたくなったが、ジョウ君は困った顔をするだろうし、腹が減って何か食いたかったのでジョウ君と一緒に車に戻った。
 車に戻って清掃着を脱いで車に乗った。ジョウ君が助手席におとなしく乗っていたハクビシンを抱き上げるとハクビシンのケツが糞まみれでジョウ君は笑った。俺は変な耳鳴りがずっとしていて、夢だと気づけば目が覚めてしまいそうな気がした。
 ビーフストロガノフは食べに行かなかった。こんな日にさすがに肉は食べる気がしない。二人でうどん屋に寄ってコンビニで猫の餌を買って、疲れ果てているジョウ君を部屋まで送ると俺も自分の部屋に帰った。
 シャワーを浴びて倒れるように布団に横になって電話をかけた。
 電話には出なかった。母親が早く死ぬのを待って、母親が死んだかどうか確かめるために毎晩電話をかけている気がした。十分おきくらいに何度かかけたが出なかった。母親が死んだら、俺はようやく母親の子宮へ帰れるような気がする。今朝に見た夢を思い出そうとしたが、ぼやけすぎてよく思い出せなかった。雨は小降りになって来てカメノムシはパックの中で裏返って死んでいた。

 キスをしたい。母親の頬に。死んだ母親の頬に。目が醒めると夕方だった。
 冷凍庫の中にはマルチーズかプードルがまだいる。いつもはすぐに埋めにいくのになんとなくまだうちにいさせようと思い埋めにいくのをやめた。支度をして外に出た。
 マンションの外で女に電話をかける。女はすぐに出た。
「岸川です、こんばんは。昨夜は二人で泊まってしまってどうもすんませんでした。あのそれで、よかったら今から会ってお話できますか」と言うと女は今から出かけるので帰ったら連絡しますと応えた。俺は「わかりました。ではご連絡をお待ちしています」と言って電話を切った。車の中で音楽を聴きながらバックミラーを睨んで待った。
 約43分後に女はマンションから出てきた。マンション前に着けていた黒のセダンに乗って車は走り出した。車の後を気づかれないように間を空けて着けた。車は寄り道をすることなくホテル街へと入っていった。ホテルに入っていったのを見届けてから近くでファミレスを探した。見つけたファミレスで海老グラタンと海老ピラフとコーンスープをゆっくり口に運びながら、売春、恋人、愛人、父親、セフレ、の順番に想像したが、どの相手でも嫌な気持ちになった。心の奥がぬめぬめするような気持ち悪さだった。ずるずるしたぬめぬめでずめずめとして、そういえばあの女精神病んでるとジョウ君は言っていたが、ヤクでもやっとるんちゃうかと思った。ライチジュースをおかわりしてS、コカイン、ヘロイン、LSD、MDMA、マリファナ、合法系、向精神薬の順に想像してみたが喉は異物感を感じて胃が痛くなってきたので想像をやめにした。でももしヤク中になっているなら金さえ積めばあの女はなんでも言うことを聞くかもしれない。しかし問題はジョウ君で、何でよりにもよってあんな馬鹿な女に惚れるのか、と思って携帯を見ると35分過ぎていたので用を足してから店を出た。
 ホテルの一番奥に車を停めて女を待つ。45分を過ぎた頃、猿顔で背の高いスーツ姿の男が一人ホテルから出てきて黒のセダンに乗ってホテルから出て行った。俺もホテルを出てホテルの入り口が見える少し離れた場所に停めてまた女を待った。少し待ってると女が出てきてとぼとぼと歩き出した。車でゆっくり着けるとそのまま駅のほうへは向かわず車で来た道の歩道を歩いている。俺は女に電話をかけた。女は弱々しい声で出た。
「今、ちょうど駅の近くにいるんですけど、何時ごろ帰れそうですか?」と俺は女に聞いた。女は「わたしも駅の近くにいます」と応えた。
「どこらへんにいるんですか」
 女は辺りを見回して見える大きな建物の看板を言っていった。
「ああ、そこらへんですか、わかりました、今すぐ向かうんで待っててください」と言って女の返事を待たずに電話を切った。俺はわき道へ入って7分待って女の待ってる歩道の横に車を着けた。助手席の窓を開けて「荻原さん」と呼んだ。携帯を見ていた女は振り返って頭を下げ、「乗ってください」と言うとドアを開けて女は助手席に乗った。泣いて目を腫らし鼻を啜っている女に「お腹すいてませんか」と訊くと女はうつむいて「すこし」と応えた。
「ほな、なんか食べに行きましょう、なんか食べたいもんありますか?」
「特にないです」
「そしたら、バッファローでもいいですか?」
「はい」
 ちょっと先にあるカフェレストランバッファローに向かって車を出した。
 店に着いて人のいない空いている一番奥の角の席に座る。店内はトランペットのジャズがかかっており如何にもイかしてる感をアピールしたいという洒落た店だった。ムード感たっぷりでしょう、ボトル一、二本開けたくなるでしょう、開けてくださいよ、どうぞ夜が明けるまで、って閉まるのは零時ですけど、帰りは金さえあるなら代行呼んだらいいじゃないですか、ええやないですかという店の見え難い誘惑、誘導に引っかかりワインでも飲みたくなってしまったが、やっぱり自分の車は自分で持ち帰らなくてはならないので我慢と辛抱をした。しかし女が暗い顔でパスタを黙々と食っているところをコーヒー飲みながら見ていたら、我慢と辛抱がどこかへ飛んでいって、家が近所のジョウ君呼べばいいかな、と思って女に飲みますかと訊いたら頷いたので中くらいの値段のボトルワインを持ってこさせた。女は、不細工だった。不細工を通り越して、醜いところに達していると言ってまさか過言じゃないよ?というほどだった。しかしなんなのやろうか、ワインを一緒に飲みながら眺めていると、そう悪くないのかな、ま、頼まれたら寝てやってもいいだろうくらいに思えてくるのだった。ほかの男にヤられた直後の女をヤるのはげんくそ悪い気持ちだが、頼まれたら断らないかなと思えるほどだった。酒を入れて忘れてしまっていたが、この女は妊娠しているんだった。死んでもヤらない、と俺は思い直した。妊娠している女とヤるのはどういう気持ちなんやろうと思った。自分が腹の中に居ながら、男とヤっている母親を胎児はどう思うのだろう。それに気づける意識があって、ほかの男とヤっている母親を子供は潜在意識の中で許すことができるのだろうか。チャールズ・ミンガスはチャーリーと呼ばれたら相手をボッコボコにするらしい。これ流れてるのチャーリーかなと思って、そんな話を思い出した。女はワインを一気飲みで二杯はいったあと、陽気になり出した。
「昨日の、岸川さん、おもろかったぁ、ぼんち?あれ、今日何回も思い出して爆笑してもうて、もっかい見たいわぁ、あはははは」
 女はどうやら一定以上酔うとおばはんのような喋り口になるらしかった。
「いやぁ、ここではちょう恥ずかしいてできまへんけろ、帰ったらなんぼほろれもやりまっさ、今夜は寝かせまへんでえ、ばはははははっ」
 俺もどこまで酔ったのか、自分も語り口調がおかしいことはわかったが、酔いの勢いは止められないもので終着駅を俺は見失ってしまった。終着駅ってなんのや、いかがわしい、俺は女にばんばん酒を飲ませて俺も飲んだ。
「今夜は帰りまえへんでえ、ええんでっか、ええんでっか」
「わたし、岸川さんのことが好きです」
「え?」
 沈黙のあと携帯を見るともう閉店の15分前だった。俺はジョウ君に電話をかけた。
 とるるるるるる、「もしもし」ジョウ君のひどいさわやか声が出て「あぁ、俺や、俺、あんな、今、バッファロー、わかる?ちょう歩いて来てくれる?酔っ払ってもうてな、車、運転できへんねんか、すまんけろ」
 ジョウ君は元気よく「はいはい、ばっふぁろーね、今すぐ歩いて向かいます、それじゃ」と言って、電話が切れた。俺はジョウ君の声の奥にある見え隠れしたいつもの冷ややかさに落ち込んだ。しかし荻原の女といろんなカクテルをがぶ飲みして忘れ去っていった。
 閉店3分前にジョウ君はやってきて、俺と女を交互に見て、何か言いたげな顔を俺にじっと向けた。俺は何も言わず立ち上がって鼻から溜め息を吐きながら首を横に振った。
 俺は車の後ろにおとなしく乗って、ジョウ君と女が楽しくしゃべっている間、窓の外の景色を眺めていた。
 内臓の悪いにおいが自分の口の中にする。人を解体して燃やして埋めた金で飲んだ酒だから美味しい。
 結構飲んでいたし、頭がいつもよりおかしくなっていたのでジョウ君に「女の部屋で3Pするか、おまえだけ帰るか選べ」と言って遠い目をしたジョウ君に帰らせ、俺は女の部屋に上がった。直後にジョウ君から電話があって低く抑えた声で「なんかあったら僕にも考えがあるんで、じゃ」と言ってすぐ切れた。あーこわ、ジョウ君こっわ、と思いながら黙り込んだ女と布団の上で差し向かいに座った。
 女とヤりたいという思いがあった。腹ん中にもう一人おらなければ、ヤって構わなかった。いくら酒を飲んでも人間を腹に宿している女に指一本でも触れるのは気持ちが悪いと思った。死体とヤったほうが俺の心は傷つかないだろう。
 温かい麦茶を淹れてくれた女に向かって静かに「いくら必要ですか」と訊いた。女は怯えた目をまた向けながら「三十五万円くらい」と答えた。
「中絶の費用ですか」
「はい」
「プラス清掃費の十三万で四十七万円ですね」
「はい」
「あ、ちゃうわ、四十八万か」
「はい」
「何がそんなにおかしいんですか、荻原さん」
 俺は顔を赤くして笑いをこらえている女を強引に引き寄せて口を吸いまくった。吸ったあと、酷く後悔した。後悔してる最中にも陰茎がいきり立ったままで収まらなかった。辛抱たまらず女を押し倒し上半身に着けていたものを全部剥がして胸を揉んで吸って舐めまくった。女の口に吸い付きながら女の中に差し込んで動かしていると携帯が鳴った。足首のところまでずらしていたスーツのパンツを引き寄せてポケットをまさぐり腰を動かしながら携帯を見ると非通知だった。俺は動かすのをゆっくりにしながら電話に出た。こっちが無言でいると向こうも無言のままですぐに切れた。俺は女の体を起こして座った体勢で激しく揺らして女の中に出した。
 肉欲が引くと死体以上に嫌悪を感じる女を抱いたことに吐き気をもよおし、何とか落ち着くためにシャワーを借りて浴びた。上がって、寝ている女を起こして、「明日お金持ってきます」と言って帰ろうとしたら、女が俺の腕をつかんで寂しそうな顔をした。俺は鳥肌が立ちそうなほどぞっとして手をゆっくり離しながら優しく微笑んでるつもりの顔で「今日は帰りますわ」と言って女の部屋を出た。
 車に乗って、着信履歴を見た。あれ以降は誰からもかかってなかった。母親のはずはない。母親に泣き縋りたい、でも何を泣き縋りたいのかがわからない。生きてる人間に泣き縋っても何も返ってこない。縋って何かが返ってきそうなのは胎児だけかもしれない。胎児に電話がかけられるなら聞いてみたい。俺の精液はあたたかかったか?なにか感じたか?何も言いたいことも言えずに殺される気持ちを。おまえの命は俺が握ってやろう。まだ日にちもあるし、生まれるか死ぬか俺が決めてやろう。おまえが大きくなってもあの女を殺しさえすればおまえも一緒に死ぬんだ。
 あれ、と思ってもういちど着信履歴を見た。ちょっと前に02時06分着信ジョウ君とあった。通話時間07分54秒って、って俺取ってへんがな。なんでやねん。あ、と俺は思った。あの女、なに俺が風呂入ってるまぁに勝手に取り腐っとんねん。嘆かわしい。どっか頭がイカれ腐っとんのやろう。イカ腐れ女のアホ野郎が。早く縁を切りたい。はやく、縁を円で切りたい。
車を走らせて自分の部屋に帰った。金を持って、そのままジョウ君の住んでる部屋まで、俺は何も考えなかった。夜が明けるまでに、すましてしまいたい。ジョウ君のアパートに着くとそう思った。あの女が寝るまえにジョウ君が怒るまえに夜が明けるまえに女が子を堕ろすまえに俺が醒めるまえにすましてしまえ、死ぬまえに、みんな死ぬまえに。
ジョウ君の部屋の前で電話をかけた。電話に出ない。俺は部屋をノックした。ちょっとしたら眠そうな顔でジョウ君がドアの隙間から俺を非難する顔で出た。ドアに手をかけて「俺はそんな顔をされるためにここに来たんやない」と言いながら中に強引に入った。
勝手に入ってこられてジョウ君は始終ムスっとした顔でハクビシンの子供と遊んでいた。俺が触ろうと手を伸ばしたら避けるように抱き上げてケージの中に入れた。無言で立ちあがったジョウ君が小便をしに行ってる隙にケージの中に指を突っ込んでハクビシンを触ろうとすると奴は指を、俺の、指を、噛みやがった。けっこう痛く、彷徨を人に勧めているような何かを俺に向けられているような何かを感じさせる何かがそこにあるような気がした。こいつを連れて彷徨することも頭をよぎったが、彷徨するまえに、俺はすましてしまいたいことが、あ。そのときジョウ君が戻ってきた。俺が何も言わず噛まれて血がちょっと出てる指を前に出すとジョウ君も何も言わずにキョロキョロして無造作に置かれた雑誌や本の下から絆創膏の箱を取り出すと一枚抜いて俺に渡した。そんな冷たい無表情で渡される絆創膏を貼っても指の傷は治りが早いとしても心に受けた傷の治りはまだ、はははと傷を見て笑われたほうが治るんだよ、と俺は心の中で言いながら絆創膏を指に貼った。貼った後に、ふつう傷を洗ってから貼るやろ、と思って、それを気づいてたのに言ってくれなかったかもしれないジョウ君の目を責めるように見てみると、冷やかな目の奥が怒りで燃え切っていた。血が滾っていたが、ジョウ君が怒る前に俺はすましてしまいたいことが、あるから仕方ない俺は、持ってきた札束一つ入った封筒を懐から出してバサッと床に投げた。しらっとして眼だけで封筒を見下ろしてまた俺を恐ろしい目で見返してジョウ君は「なんすか、これ」と憎しみと殺意を殺した感情の低い声で言った。
「か・ね」と言った後、どつかれるかな、と思って強く食い縛った。
「か・ね……?」と日本に来てまだ間もないフィリピン人のような片言でジョウ君は聞いた。
「そ、この、か・ね、あの、女に、渡して、殺し、頼んできて、ほしの、今から」と俺も片言風に反してみた。で、どつかれるかな、と思っておもっきし歯を食いしばった。
「いま、か、ら?」ジョウ君は何か生まれて初めてホームレスを見たときの悲しみと嫌悪の入り混じったような目で言った。
 俺が黙ってうなづくと「どう、して、も?」と今度は天皇陛下に生まれて初めて会った右翼青年が何かをひどく乞うような眼をして言った。俺がまた顎だけで頷くと「無理、なら?」と聞いたので俺はゆっくりと「しゃっ、きん、ひとり、で、返し」と言った。
 ジョウ君は即答で「それは無理です」といつもの目に戻ってきっぱりと応えた。
「ほな、頼むわ」と言って安心した俺はそのままジョウ君の布団に這いずって寝た。
寝たと思ったはずがジョウ君に叩き起こされて、「で、誰を殺るんです?」と訊かれた。俺は、あ、見せるの忘れてた、とシャツのポケットに入れてたはずの写真を一枚見せた。
「イカのから揚げ、天ぷら粉、シマヤだしの素、アマノフーズしあわせみそ汁、のどごし生、オクラ、三角蒸しパン黒糖、もちっとした食感を楽しむゆず蒸しぱん、あかちゃんのえくぼ5個入、神戸牛入りカレーパン、サントリー南アルプスの天然水スパークリング、コアラのマーチ、チヂミこだわりセット2人前、液体ブルーレット抗菌EXつけ替用スーパーミントの香り、葛餅、煮物ちくわ、ワンカップ大関」
 読み終わったジョウ君は俺にレシートを戻した。
 ぶん殴られるかなと思ったが、ジョウ君は横になった俺の頭の後ろで静かに息をしていた。ハクビシンがケージの柵を噛んでいる音だけが聞こえる。脇を掻いた瞬間素早く振り返った瞬間ジョウ君に顔面を殴られ鼻血がどろりと垂れる。というのを想像して、イメージして脇を掻いた瞬間素早く振り返った。ジョウ君はハクビシンの鼻をつついて楽しそうに遊んでいた。静かに遊んでいた。俺は思った。あかちゃんのえくぼを売るなよ、店員のスマイルを売るな、売り物にすな、誰もそんなものがほしくてお金を出してるんじゃない。誰もそんなもんがほしくて生きてるわけじゃない。あかちゃんはえくぼがなくてもあかちゃんであればいい、店員はスマイルがなくても店員であればいい、それで、いい、それだけで、いい。
ジョウ君が一人で温かい茶ァを飲んでる。俺にはくれない。俺だって茶ァが飲みたい、温かい茶ァが。ものごっつ熱い茶ァをごきゅっと飲んでしまった時の、あの感覚、あの怖い感覚。そのような感覚をあの女はもっと知ればいい。とそう思った。口ん中と喉と体内が焼け爛れて、確実に死を早めることを自分はやってしまったに違いない、もう何をやったって、熱い茶ァを飲む前の自分には戻れない、そう信じ込むことによって確実に死を早めようと自らやってるかのごとくに早死にの不安と心配による極度のストレスを引き起こし、自分で死を引き寄せてるんやん、とあの女は阿呆みたいな顔で知ればいい。阿呆みたいな女は阿呆みたいな考えによって阿呆みたいに死ねばいい。あの女は自分みたいな阿呆な女が阿呆みたいに生きてるのは阿呆みたいやから、自分を殺してほしいと俺とジョウ君にノーマネーで依頼すればいい。俺は受け付けない。50万円払えば、殺してやってもいいが、お前を殺すのには本当は安い、本当は5千万くらいもらわないと嫌、でもお前の子供は30万で殺してもらえたけど、俺なら3億もらったって安い、そんな命をお前は30万で殺させたんだ、お前は5万以下で誰かに殺してもらえ。いいか、お前は人に殺しを頼んだ依頼者だ。お前は殺し屋に殺人の仕事をたった30万で依頼したんだ。どんな阿呆な人間か思い知れ。明日ジョウ君に持たせた100万ですぐに堕胎してこい。お前はもうすでに人殺しだが、残りの金でもっかい人を殺してもらう。お前のその手で、殺してもらう。
相手は、俺が殺す気にもなれない、俺の母親だ。
 俺はジョウ君に母親の写真と住所の書いてある紙きれを渡した。
「早いうちに頼むわ」
 そう言ってジョウ君に背を向けてまた横になった。
 ジョウ君はなんにも言わなかった。それか何かを言っていたのかもしれないが、俺の耳はもう届かないところにいっていた。

 目が覚めると頭がやけに重かった。西日に照らされたケージの中でハクビシンが丸くなって寝ていた。起き上がる気になれなかったが膀胱が不快で重い体を起こし用を足しに起き上がった。用を足している間も用を足し終わってからも意味の分からない感覚が離れず、いったいいつ付いた癖なのか両手で顔を洗うようなしぐさを何度もしては、やっと俺は変に動揺しているんだということに気付いた。
 俺は夜になるまで待てずに電話をかけた。電話には出なかった。そのすぐあとにあの女はいま何をしているんだろうと思った。突如、気味の悪さに全身がぞわっとした。俺はあの女に対する気味の悪さはどこかに落として忘れたきり思い出すことすらしないゴミのように無関心だった。そのゴミを大切なもののように拾ったのは、あの女の腹の中に居る赤子で、あいつは俺に恨みを持つのはそれは当然のことだと思ったが、当然のことだと思ったからって何がどう解決するわけでもないこの気味の悪さからいったいいつ解き放たれるのだろうと考えることも無意味に思ったので、俺はとりあえず水を飲んでまた布団の中にくるまって目をつぶり、「いまはだれも呪いたくない」と何故か無意識に呟いていた。

 それから三日間、なんでかジョウ君は帰ってこなかった。ハクビシンに水とフードだけやってくれとメールが来た。
 俺はもしかして、ジョウ君はあの百万で女と逃げたんじゃないのかと考えてもみた。借金の話も全部嘘なんじゃないかと考えた。しょうもない女と逃げたジョウ君もほんまはしょうもない人間で、そのしょうもない二人が持ち逃げしたたった百万はしょうもない、その百万はしょうもない人間を解体して稼いだ金で、しょうもない仕事をやってる俺もしょうもない、しょうもないジョウ君が持ち帰ってきたこのハクビシンもしょうもない。そう思ってハクビシンをふと見ると、ハクビシンはものすごくフードをガッツガツ食っていた。水があまり入ってなかったので新しい水に変えてやると水もゴックゴク飲んでいた。
 時間は夕方の五時過ぎで腹が減ったので適当にあったカップラーメンに湯を注いで食っていると、電話が鳴った。
 知らない携帯番号からだった。「はい、特殊清掃のバイソン屋です」テンションの下がった声で出ると、少し間をおいて「あの……」と若い男の声が聞こえた。
「特殊清掃のご依頼ですか?」と訊くと、「いや、違うんです。……お宅、キシガワギロウさんですか?」と訊かれ、俺は虫の居所が特に悪かったのか酷く頭に来て「ワレ自分から先ィ名乗るンが筋ちゃうんかい」と言ってしまった。
 相手は少し黙った後に落ち着いた声で言った。
「わたしですか、わたしは、荻原かなでという女性の知り合いのもんです。キシガワさん、あなた、彼女になんか恨みでもあるんですか......彼女、自殺未遂したんですよ、今朝」
 俺は正直にどういうことなのかがわからなかったので「どうゆうことやねん」と怒気を含んで返事した。
 すると相手は実は落ち着いた様子をしているが、相当狼狽しているんだという様子を言葉の節々に滲ませ始めた。
「いや、無事です。無事なんですよ彼女、はははっ。……あなたの子供も無事ですよ。わたしの子供だと思ってたんですけど、いやあ、なんなんでしょうほんと……とりあえず……精神錯乱中の彼女が今私に向かって包丁向けて切れっつってますので、切りますわ、ほなまた」
 俺は一瞬、ジョウ君が酒に酔ってふざけてボイスチェンジャーかなんか使って俺で遊んでるのかと思ったが、その可能性は低いだろうと一瞬後に思ったのでジョウ君にすぐさま電話をかけた。
 ジョウ君は普通に電話に出た。疲れ切った声だった。そして出てすぐに奇怪なことを喋りだした。
「兄弟。ちょうど今こっちからかけようと思ってたんですよ。ちょう聞いてください。兄弟に一つお願いがあるんですよ。聞いてもらえます?」
「なんや急に」
「彼女……荻原さんがね、明日みんなで旅行に行きたいって言うんですよ」
「その、荻原さん、今どこにおんねん」
「今ちょっと家にいないんですよ」
「百万持って逃げたんちゃうんか」
「いや、百万はぼくが持ってます」
「おまえ、さっきな俺んとこにけったいな男から電話かかってきて、荻原さんが自殺未遂したとか、あと意味のわからんことばっかゆうとって……」と俺が話してるとジョウ君がため息交じりに話を遮って「すんませんが兄弟、その話明日さしてもらいます」と言うので「なんでやねん」と俺がイラついて言うと「今日はもう疲れたんです。すんません。明日また電話します」と言って電話が切れた。
 なんやねん、どいつもこいつも仄めかしばっかり、俺がなんか悪いことしたんか、と思ったら悪いことしかしてこなかったと思って、伸びきったラーメンを食べたらまずかったので何か食べに行こうと思い服を着替えて外へ出た。
 空は曇っていて雨が降ってきそうだった。近くのうどん屋でうどんを食ってるとさっきのムカつく電話の内容を思い出して、せっかくのうどんが不味くなって何のためにうどんを食いに来たのかと思ってまた腹が立って焼酎を一杯だけ飲んだのがまた裏目に出て、雨がぽつぽつと降りだしてきて、しまいに土砂降りになった。
 いつもだったらジョウ君に電話して「おい雨降ってきたから車で迎えに来てくれ」と言ったらめんどくさそうに迎えに来てくれるのに。
 すこしテレビをぼんやり見て雨が小降りになるのを待っていたが、一向に降水量に変化が見られないから辛抱切れて小走りで帰ることにした。しかし自分は酔っているということを思い出して、もう普通に歩いて帰ろうと思った。酔って小走りで帰るなんて危ないし、恥ずかしいし、やめといたほうがいい、でもなんというか、うどん屋の軒下に佇んで雨ン中の雑踏を眺めていると、誰もいない自分の家が恋しくなりちょっと家に帰ろうかなと思って、タクシーに電話して来てくれと頼んだ。
 タクシーに乗った瞬間、「あんた悲しいから嫌い」と言われて振られた瞬間の記憶を何故か思い出した。どうやらタクシーの中に何年か前に付き合ってた女に似た匂いがした気がするが、女の顔はまったく思い出せずのっぺらぼうの女は名前すら思い出せなかった。
 気持ちが悪かったが自分は健忘症だというのは認めたくなかったので、その女があまりに特徴のないつまらない顔と名前だったからだろうということにして気持ちを落ち着かせて、音を気にして放屁した。
 気分を紛らわせるために気のよさそうな運転手のおっちゃんに話しかけてみた。
「おっちゃん、なんか最近おもろいニュースとかなんかあった?」
 おっちゃんは痰を切るように咳をしてから「おもろいニュースぅ…あんま思い出されんねぇ、物騒なニュースなら仰山ありますけども」
「物騒な話はええわ、もうそんなんばっかりやから、テレビも新聞も」
「そうですよねぇ…気分が暗ァくなってまいますねぇ」
「そやろ、なんか身近に起きた話とか、おもろいことなかったん?」
「身近…ああ、そういやぁ、最近孫が産まれましてね」
「そら、おめでとうさんやな」
「へへ、おおきに。そのぉ、孫がね、ほんまなに考えてんのかわからんことばぁっかししよるから、見てて飽きひんのですわ、はは」
「そやろな、猿観察してんのと変わらんやろな」
「ほほっ、ほんまそんな感じですわ、でぇ、最近その孫がね、ちょっと目を離したすきに、オムツを自分で外してまいよってね、でぇ、ぱって見たら口の周りが茶色いんですわ、嗅いでみると、まぁ、臭いんですわ、こりゃ参りましたねぇ、ほほほ」
「おっちゃん、その話…おもろいなぁ、汚い話やけど、でもおもろいゆうて笑ってるけど俺もおっちゃんも普通に赤ちゃんの時口にしてたりしてな」
「いやっ、はははっ、わたしの時代はもうみんな貧しかったから、今より経験者は多いかもしれないってねぇ」
「もう糞しか食うもんなかったら、食うしかないもんなぁ」
「口寂しさに口に入れたくなったりとか、極限状態に置かれたら、なんでも食べ物に思えて来るってのはありますでしょうねぇ」
「赤ん坊ってなんでも口に入れてまうやろ、監視しとかんかったらなんでも食うて死んでまうで、よおあんなんで生きとるよなぁ」
「ほんまそうですよねぇ、いつでもそばにおってくれる人がおる前提で生まれてくるみたいなもんですわ」
「あれ?さっきんとこ曲がったほうが早かったで」
「あっ、ほんま、すんまへん、料金引いときまっさかい」
「ええよ。これ少ないけど、お孫さんの誕生祝い」そう言って俺はおっちゃんと椅子の間に一万円札を挟んで「ここで降りるわ、ほなおおきに」と言って赤信号で止まった隙に礼も聞かずに急いでタクシーを降りた。
 結局雨にずぶぬれに濡れて家に着いた。

 夜中に目が醒め、ジョウ君に電話した。
半分、まだ夢のなかにいるようなとぎれとぎれの声でジョウ君が出た。
俺もよくわからないが、思ったことを言った。
「悪いな、こんな時間に。」
「…どうしたんすか、兄弟。」
「なんかわからんねんけど、さっき思ってん。」
「…。」
「俺たちはアスホールやのうて、イエスタディホールへ行くべきなんちゃうかって。」
「…。」
ジョウ君はまた寝たのか、黙っている。
気にせず俺は続けた。
「普通は、人はアスホールへ向かうと思てるんやと俺は思ってんやんか。でも俺たちは、ちゃうと思ったんやんか。俺たちは人々の思とる方とはちゃう方、イエスタディホールの方に行かんとならんねん。さっき、なんか降りてきて、俺にそうゆうたんや。」
少しの間ァがあり、ジョウ君は携帯の向こうで応えた。
「兄弟…それ、なんの話っすか…?」
俺は咳払いして答えた。
「アスホール(asshole)って"ケツの穴"て意味やんか。知ってる?」
「はい。知ってます。」
「でもこれは隠れた意味があって、"トゥモォーロォゥホール"っていう意味があるってさっきわかってん。」
「明日(あした)って意味ですか。」
「アス(明日)や。」
「はい。」
「"トゥモォーロォゥ(tomorrow)"って"将来"や、"未来"って意味があるやん?」
「そうですね。」
「せやさかい、"アスホール"にも、そうゆう意味が隠れとんのや。正味。」
「…それで、どういう話なんすか…?」
「…例えばある道を行ってて道標がある。左右に分かれた道の前にな。」
「はい。」
「右はアスホールで、左はイエスタディホールや。お前どっち選ぶんや?」
ジョウ君は疲れた眠たそうな声で応えた。
「てゆうか、どっちも"穴(hole)"なんすか…。」
「"穴"ってお前、色んな意味あるやんか。例えば、俺たちが生まれた来た場所も…」
ジョウ君が突然、大きな声を上げた。
「あっ!せや、ゆうん忘れてました。」
「なんや。」
「荻原さん、明日行きたいとこ、"産道巡り"に行きたいゆうてました。」
「産道巡りって、それどこにあるんや。」
「京都のどっか、神社の地下にあるみたいなんですよ。洞窟が。」
「それ、産道やのうて"胎内巡り"ちゃうんけ。」
「あっ、そういう場所があるんですか?なら多分、そこやと思います。」
「これから我が子ォ堕ろす女が行くような場所なんけ。」
「さあ、それは…僕もどういう理由か訊いてませんし…。」
「無事に産まれるようにとの安産祈願しに胎内めぐるわけとちゃうんか。」
「荻原さんも迷ってるんかもしれへんやないですか。」
少しの間、互いに沈黙した。
「俺は嫌やで、そんな女と"ハラ”ん中巡るんは。」
「ハラて、だれのハラなんすか…。」
「だれて、自分が生まれてくるハラん中巡るんやろ。」
「そんな意味があるんすか?」
「確かそういった意味があったおもうんやけろ。」
「まあ、兄弟は無理に巡る必要ありませんやん。嫌なら僕と荻原さんだけでその穴を巡りますから。」
「そんなことゆうて、お前と荻原さんふたりでいちゃいちゃずっとして、俺はただの脚として足生えた静かで緘黙な顔したコケシみたいな顔の人間として存在してくれることをお前ら望んでんねやろ?」
ジョウ君が笑った。
「そんなこと考えてませんよ。兄弟。」
「なんで俺も行かなあきまへんねん。」
「荻原さんがそう望んでたんで。三人で行きたいって懇願されたんですよ。」
深い溜息を吐いて言った。
「俺はその"ハラ"が、つまり、その"子宮"がイエスタディホールに繋がってるなら行くよ。」
するとジョウ君は真面目腐った声で言った。
「兄弟。僕たちは、"アスホール(ケツの穴)"には向かいませんよ。間違いなくそこは"イエスタディホール"だと思います。」
「ほんまか?ほんまなんやな?」
「僕は誓いますよ。」
ジョウ君がそう言って、何故だか、俺はとても安心した。
「ほな明日(アス)、待っとるさかい。」
そう言って俺は電話を切り、あたたかい毛布にくるまれてすぐに深い眠りについた。








































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