壊し永らえる者たち


 十年前の夏、僕は河原で座って猫を燃やしていた。夕日がイガイガしているなと思っていると一人の男が近づいてきてこう言った。

「くさっ」

 僕は男の顔を見た。けむたそうなその顔の男は一見髪がキリストのように伸びた若い白Tシャツにジーパン姿のホームレスかと思い襲われるのではないかと高校生の僕は瞬時思った。男はぐんぐん近づいてまた言った。

「何燃やしてんね」

 僕は驚いた。ここは関東だったからだ。また首を戻して燃えていく猫を見ながら言った。

「肉」

 男は素っ頓狂な声を出した。

「何の肉や」

 僕は少し黙って、嘘をつくと襲われるのが厭だったから素直に言った。

「猫」

 男は驚くことなく「ほォ」と言った。男はそばまで来た。僕は殴られるのではないかと殴られる前に男を刺し殺そうかと鞄の中に手を突っ込んでみた。出刃包丁がなかった。くそ、今日忘れてきた。そう思ったとたん出刃包丁を忘れたから猫を石で殴り殺したことをすっかり忘れていた僕は頭がいかれているのかと思った。とにかく殴られるのは厭だったから殴られる前に手を打とうとしたけど考えてるまに男はもう三角座りした自分の目の横に立て膝を着いて座って横から声を出した。

「死んでもうたんか、猫」

 僕は嘘を見破られて殴られるくらいなら本当のことを言ったほうがいいと思い正直に答えた。

「殺した」

 男は舐めるように僕の横顔を見ている。もし殴られたら男を殺して僕も死ぬのだろうか。僕は死にたくはないことも死にたいこともないからよくわからない。ただこの時間は苦痛と安楽が共存している。僕はこんなにじろじろとあからさまに顔を見られることがない。僕の顔はあまりに醜いから。僕は気づくと男の顔を見て「ハハハハハハハハハ」と薄く笑いかけていた。今どんなに醜い笑い顔になっているか僕は知らないけどできる限りの僕の醜い顔をこの男に伝えたかった。怖かった、自分が怖いと思った。でもこれが自分だから仕方がない。男は僕の顔を嘗め回した後に言った。

「大きな栗の木の下であなたとわたし仲良く遊びましょう、っちゅう歌を思い出した、夕方が似合う歌や、でもよく考えると別に大きな栗の木やのうてもええねん、そもそも栗の木やのうてもええねん、別に木ィの下やのうてもええねん、そもそも木ィやのうてもええし、別に無理して仲良く遊ばんかってもええしそもそも遊ばんかってもええねん、だから別にそんなことせんだってええっていう歌やな、これは、でもそうゆう歌ってなんか多いな。」

 僕は火を見つめて黙っていた。すると男も火を見つめて言った。

「俺さいきん寂しかった、ほんま寂しかった、君に出会えて、よかった」

 僕は、気づくと男の胸の中に顔を突っ込んで思い切り声を上げて泣いていた。男はびっくりして咳き込んでいた。これが僕と永良の出会い、僕が十七歳で永良が二十六歳の夏の夕暮れが変に黄色かったことを覚えている。

 そのあと一緒に焼けた猫の骨を埋めて僕は猫を殺すのをやめた。僕の恩人、猫の恩人、僕に殺されるはずだった猫たちも永良のおかげで殺されずにすんだから猫の恩人、ついでにこのまま行くとたぶん僕に殺されるはずだった担任の恩人、クラスメイトの恩人、家族の恩人、数えたらきりがないほどの恩を背負っている永良を僕は心のどん底から信頼と尊敬を込めて生きることを決めた。だから僕は一生永良に救われて生きている僕の一生すべて生命が永良のもので、僕の人生が僕のものではない、その喜びを、そんな喜びを僕はそれまで知らなかった。僕を仕合わせに自由にしてくれた永良に僕ができることはなんだったかというと、それはまともに働くことができない永良を僕が一生かけて養うということだった。僕のおかげで永良が生かされるというのはなんという喜びだろう。僕はうどん屋で死に物狂いで働いた、大学にも行かず、高校もあの日を最後に退学して即、働きに出た。親を利用して生活費を少しは入れろという親をどつきまわして家に生活費は入れず給料すべてを永良に与えた。両親は「しんどい。」という達筆の一言を広告の裏に書いた遺書を残して五年後に練炭心中をして死んだ。僕がもし間違ったことをしているならこの世のすべてが間違っているんだ。両親の灰はすべて引き取ってエコロジーを考えて飼っていた猫の砂として使って捨てた。僕が間違っているというならエコロジー自体が間違っている。僕は別に親をどつきたくてどついていなかったけれど、僕が僕を救ってくれた永良のためにこんなにがんばってるだけなのにそれをわからない親の心がやっぱり腹立たしくて、息子が救われていることよりも生活費を家に入れないことにこだわる親が許せなかった。僕は親の気持ちはわかっていた。親が本当に怒ってるのは家に生活費を入れないことではなく、なんで一流大学行かせて一流企業に勤めさせるために産んで育ててきたのに高校退学してどこの馬の骨かわからない男に給料全額貢いでるんだ、嘆かわしい、という想いだったのだろう。僕は子供の責任を確かに果たさなかったけれど、あんまりだよ、心中なんて、でも僕は天涯孤独ではない、永良がいるから。家族以上の存在、永良、今年の誕生日にNAGARAって緑のワッペンを縫い付けた赤い僕の手編みのマフラーを照れくさそうに永良は首に巻いてくれた、とてもよく似合っていた。

 

十年前の秋、昼下がりに僕は小さな山の天辺から永良に言った。

「僕、この町が大嫌いなんだけど、どうしても離れたくないんだ」

 永良は斜面に仰向けに寝て空を見ていた。色のない空。永良は言った。

「毅〔こわし〕は自分を好きになりたいんやろ、ええこっちゃ、俺はよそもんやさかい、自分を捨ててきた人間や、いったん自分を捨てた人間はもう元の自分には戻られへん」

 茶色い枯れ葉がちょうど永良の股間の辺りに落ちてのっかった。僕はその枯れ葉を手に取り鼻に近づけると大げさに「くさっ」と言った。僕と永良は笑った。永良が最初に僕に言った「くさっ」という言葉が可笑しくてそれからことあるごとに僕は「くさっ」と口癖のように言うようになった。

「ははは昨日銭湯行ったのに」

「しょんべんがジーパンに染み付いておんねんやわ、あーくさ」

「はははそらしゃあない」

「人間って一生ひとりの自分でいたほうがいいの?」

「自分がようさんおるとどれが自分かわからんなるやろ、自分がわからんなるっちゅうのは苦しいことやさかい一人のほうがええと思うんが人情ちゃうけ」

「僕はあのまま罪を重ねてたらこの町を離れたくなってた、でもいま離れたくないのは永良と出会った町で永良がここにいるからだよ」

「俺の脇が臭いように俺の心って臭いで」

「僕は永良の心が臭いとは思わないよ」

「脇は臭い?」

「うん、くんくん、くさっ」

「オーマイスパゲッティ」

「今日の晩御飯は明太子スパゲッティに決定だね」

「わーい」

「貝割れ大根をたっぷりのせると美味いんだよな」

「貝が割れた形のあの植物か」

「あっだから貝割れってゆうのかぁ」

「おっきなったら大根になるけど、大根になる前の小根のときに刈り取られるわけやな、大根と貝割れの味噌汁なんてのは親のような大根に小さな子供の貝割れが寄り添っているという料理やろな」

「明太子と貝割れの料理は?」

「たくさんの生まれてこなかった鱈の卵たちに少し生まれてきて過ごした経験のある貝割れたちが寄り添っているという料理やろう」

「貝割れはいつも寄り添うほうなんだね」

「なんとなくあれに手ェ生えたら寄り添ってきそうやろ」

「大根や鱈子には手は生えないの?」

「だって大根は小さく刻まれてて、人間でゆうたらまあひとつの小さな肉片と同じでそれから手ェ生えてくんのおかしいやろ、鱈子はまだ生まれてないから寄り添うこともたぶん知らんやろ」

「確かに」

 僕はなんとなくそれを聞いて何本もの貝割れ大根たちが色のない空に浮かんで、手が生えて足が生え、そしてその貝割れたちがひとりびとりひとつずつの明太子の卵を手に大事そうに抱きかかえてどこかへ運んでいるという光景が見えてなんだかとても切なくなった。

 その晩、僕はマンション五十四階の自家の冷蔵庫から貝割れ大根二パックと明太子をかっさらってきて永良の住む小さい古臭いアパート一階、四畳半の間で僕が作った明太子貝割れスパゲッティを一緒に食べた。食べてるときも切なかった。茶色く小さい円形の卓袱台の上に注射器が転がっていた。

 永良がいなければ自分なんて簡単に捨てることができた。たぶん要らない物だった自分にとって自分も。「ごっとーたん」と言って食べ終わった永良は手の爪を切っている。僕は皿を洗って、あんまり遅くなると親が馬鹿みたいに怒って殴り倒さなくてはいけないから永良に「帰るよ」と言った。永良はいつも優しい笑顔で「気ィつけて帰りや」と言うけどその奥に隠した寂しさを僕は感じ取っている。自転車で夜の街を走り抜けて五十四階までエレベーターで昇る、ドアを開けて廊下にやってきたぼてぼてした黄土色の猫プッギーを触る、プッギーはつい一週間前に僕が人んちの庭で勝手にうんこしてた奴をうんこ中に抱き上げて連れて帰ってきた猫だ、顔がプッギーって感じだったからプッギーと名付けた。居間では親がそろってハリウッド系の映画を観ていた。父親が僕に向かって言った。

「プッギーの餌入れと水入れが空っぽだぞ、おまえが面倒見ると言ったんだからちゃんとやりなさい」

 僕は親の顔も見ず「はい」と答えてキャットフードと水を入れてやった。僕は変わったんだ、親が正しくなくても絶望しないようになった。今日、永良と一緒に食べた貝割れ大根は死んだ貝殻じゃない。僕はそれまで、僕の周りには死んだものしかなかった。自室の暗がりでパソコンの死体写真を見なくても生きられるようになったんだ。

 夜、布団の中にいるとき月明かりに照らされた白い石畳の急な坂道をものすごいスピードで走り下ってゆく赤と黄色と緑の誰も乗っていない小さい三輪車のイメージがふと浮かんだ、僕は三輪車に乗った記憶がない。あの三輪車は坂が終わればいったいどこへ向かうんだろう。どこにも向かう場所なんてないんじゃないのか。



 十年前の冬、僕と永良は永良の古アパートの部屋で火燵に入って蜜柑を食べながらテレビでやってた再放送『ミスター・ビーン』を観ていた。ミスター・ビーンと言う男はひとりぼっちで広めのアパートに暮らしていた。でも一人、お友達がいた。それは熊のぬいぐるみ。ビーンは熊があたかも生きているように動かして一緒に楽しく生活をしている。時には便利にペンキを塗る刷毛の代わりにしたりもしている。僕はミスター・ビーンと永良の顔を交互に見ていた。

 次の日、僕はうどん屋の仕事が終わって早速デパートに向かった。おもちゃ売り場をのぞいたが何か哀愁の漂うミスター・ビーンが持っていた熊のような奴がいなかった。僕はがっかりしてとぼとぼ大根とこんにゃくと玉子と厚揚げと牛蒡天の入ったスーパーの袋を提げて永良の家に向かって歩いていた。十字路の右の角を曲がろうとした時である西日が強くその角のゴミ捨て場の一角を照らしていた。ゴミ袋を背にちょこなんと座っていたそいつは笑っていた。僕はそいつを持って帰って永良に見せた。キャラメル色のミスター・ビーンが持っていたのと似た熊のぬいぐるみ、永良はとても喜んで抱きしめようとしたが、僕はちょっと待って!と熊を奪ってさっそくお湯で浸け置き洗いをした。そしてぎゅっと絞って耳を洗濯ばさみで挟んで部屋の中で陰干しをした。

 永良はその熊を『毛鷲〔けわし〕』と名付けてずっと大事にしてくれた。寝るときは一緒に布団に入って寝ていた。一ヵ月後、僕が部屋に行くと永良は眠っていて横に眠る毛鷲を嗅いでみると涎臭かったのでまた浸け置き洗いをしていたら、目を覚ました永良が「毛鷲がいないっ」と慌ててひどくうろたえて僕に言った。僕は「お風呂に入れてやってるよ」と言ったら、永良はほっとしてからはっと思いついた様子で「これから三人で銭湯行かへんけ」と言った。僕は「賛成っ」と言って浸け置き洗い中の毛鷲を絞って永良の洗面器の中に座らせ、三人でいつも通っている近所の銭湯へ向かった。

 銭湯に入るとまず頭と身体を洗ってそれから毛鷲と永良と僕は湯船に浸かった。永良は毛鷲を持って「熱いっ熱いっ熱いっ」と言って湯船の縁の上に毛鷲を跳ね上がらせて座らせた。どうやら毛鷲にはお湯が熱すぎたようだ。二人で湯船に浸かってボーっとしていると、背中に赤い鯉と白い睡蓮と菩薩像の交じり合った刺青のある三十半ばくらいの男が銭湯に入ってきて僕と永良の目の前の辺りに座って頭を洗い出した。永良は静かな声で「上がろけ」と言って座らせていた毛鷲をつかもうとした、するとつかみ損ねて毛鷲はころころころんとちょうど頭を洗っている刺青のある男の足元に転がってぶつかった。男は「うわっ」と驚いて毛鷲を鷲づかみすると僕と永良のほうを睨みをきかせて振り向いた。永良を見た男は「あっ」と言ってかしこまったように立ち上がっって足を半ばひらげて御辞儀した。そのとき無意識にか男は右手に持っていた毛鷲で股間を隠して御辞儀した。その瞬間、僕の右となりで浸かっていた永良が突然ざっばーっと湯船からあがったかと思うと男のほうに歩いていって男の腹の中央をどすっと一発殴った。男は「うっ」と唸って前屈みになりながらなんで?という顔で永良を見た、永良は低い声で「殺すど」と言って毛鷲を取り上げると僕のほうを振り返って「出よけ」と言った。僕は「うん」と言って永良に着いて銭湯を出た。しかし銭湯を出た永良はまた銭湯の中に入って湯船の中に毛鷲をじゃぶじゃぶ入れて洗ってぎゅっと雑巾のように絞り、そのあいだまたかしこまって御辞儀している男の腹をもう一回殴って男が倒れた後に銭湯を出てきた。

 帰り道、毛鷲を真ん中にして両側の僕と永良が毛鷲と手をつなぎ、三人仲良く並んで帰った。



 九年前の春、僕がうどん屋から帰って自分の部屋のドアを開けると見知らぬ若い女がテーブルの前に座って本を読んでいた。僕は一瞬違う家に帰ってきてしまったのかと無言でドアを閉めて、廊下を渡って居間を見回した。家は自分の家だった。親はまだ帰ってきていない。僕はもう一度部屋のドアを開けた、幻でも見たのかもしれない。女は変わらずそこに座って本を読んでいて、こちらを驚くことなく見た。僕はもしかして、父親の愛人かと思い、声を落として言った。

「あんた、誰ですか」

 女は慌てることなく平静を装って答えた。

「わたしは今日からあなたの家庭教師を務めることになった魚谷依留〔うおたにえる〕です、よろしくね貴島毅くん」

 僕は「はあー?」と大声で言った。魚谷依留はにっこり笑っている、えくぼに爪楊枝を刺してみたい。きっと落ちないだろう。僕はもう一回「はあーん?」と言った。

「意味解らないよ、僕は進学しませんよ、親にいくらもらったか知りませんが、僕は勉強なんてしませんから帰ってください、僕はいま格別に美味いうどんを一人前に作れる勉強しか興味がありません」

 魚谷依留は微笑みながら赤みがかったボブ頭の髪を耳にかけてインテリゲンチャな眼鏡の真ん中をくっと持ち上げて言った。

「いろいろお父様とお母様からお話を聞かせてもらいました。毅くんのうどん屋で働きながらこの家で養ってもらいたいという我侭を親御さんたちは聞いてくださっているのですね。我侭を一つ聞かせているのだから、親御さんたちの我侭を一つ聞いてあげたらどうでしょう、もしそれが嫌だと言うのなら、毅くんはここを出て行くべきだと親御さんたちは言っています。親に頼ってばかりいるのではなく、ひとりで生活できるようになってほしいという親の気持ちです。毅くんはどちらを選びますか?」

 僕は言葉に詰まった。なんて卑怯なやり方なんだ!しかし気を取り直して言った。

「親はなんて言ってるんですか、進学しろと言ってるんですか、それとも勉強だけしろって言ってるんですか」

「親御さんたちは進学のことについては何もおっしゃいませんでした、勉強だけでもしてくれたらひとまず安心かもしれない、なぜならそれだといつでも進学したいときにできるかもしれないからと言っていました」

「なるほど」僕は気が抜けてリュックを下ろして左のベッドに座って言った。

「で、週何回、何時間勉強すればいいんですか」

「毅くんが働いているうどん屋さんが休みの水曜日とそれから日曜日以外の曜日、四時間、です」

「はあぁ~?もっと減らしてほしいと親に言ってください」

「わかりました、しかしこれ以上は減らせないとおっしゃっていました」

「過酷過ぎるよ、僕は朝の9時から遅ければ夜の7時までうどんを作っては運んでいるんです、過労死させたいんですかって親に言ってくださいよ」

「わかりました、しかし、どうしてもこれ以上減らせない、無理なら家を出て行く条件でと言っていたものですから」

 僕はうなだれて考えた、そしてひらめいた。

「わかりました、僕を死なせないために僕に協力してください、僕はあなたと勉強しているつもりであなたを迎えます、四時間、好きにしていてください、僕も自分のやりたいことをします、それで四時間過ぎたらあなたは帰ればいい、親には毅くんはいつも真面目に勉強に励んでいてとても感心ですといってくれたらいいんです、それで高額な給与があなたのところに舞い込むのですからいいじゃないですか、僕も自由な時間が持てるし一石二鳥です」

 魚谷依留はそれを聞くと目を伏せて何か考え込みだした。そして顔を上げて立ち上がり僕の前まで来て僕の右手を握って厳しい目で言った。

「では間を取って、二時間勉強をし、二時間は自由時間ということにしましょう、そうでなければ、わたしは協力できません、その代わり、その二時間は毅くんが好きな勉強をしましょう」

 僕は魚谷依留の手を自分の手から引き剥がすことができなかった。それは何故だかよくわからない。ただ、魚谷依留の手はびっくりするほど、冷たかった。魚みたいに温度がない手だった。

 僕はとにかく多くのお金を永良に与えたかった。お金がなくなって、永良が僕の前からいなくなってしまうことが怖かった。僕は魚谷依留の提案を受け入れた。

 魚谷依留が教えられる教科は日本文学・外国文学・哲学・論理・宗教・心理学・文化学・歴史学・考古学・地理学・外国語学・日本語学・言語学・法学・経済学・社会学・国際関係学・医療技術・医学・薬学・数学・生物学・総合理学・物理学・地球科学・化学・資源・エネルギー工学・生物工学・農学・森林科学・教育学・児童学・人間科学だった。僕はその中から生物工学と人間科学を学びたいと言った。

 そして僕は重大なことに気がついた。四時間部屋に監禁状態だと、永良に会いに行けないじゃないか!永良は大体夜中の三時ごろに寝ると言っていた。僕はいつも午前0時を回る前に帰っていたけれど、しかたない、親が寝付いた頃にもう一度そっと永良の部屋に行くことにしよう、そして永良が寝たら僕も家に帰って寝ればいい、睡眠時間が減るけれど、これも永良への愛で乗り越えられるだろう。でもそうすると、一緒に晩御飯を食べたり、一緒に銭湯に行けなくなる、何かいい方法は無いだろうか、あっ、そうだ、いったんうどん屋から帰ったら永良の家に行って晩御飯を作って一緒に食べて一緒に銭湯に行って、それで帰って勉強を四時間すればいいんだ。そうしよう。

 そうしてそれから月火木金土の四時間を二人きりで過ごすことになった。

 僕が十七歳、魚谷依留が二十五歳の春だった。



 九年前の梅雨、水曜日の午後、僕と永良は雨に打たれていた。最近、素麺ばかりだから今日はカレーが食べたいな、意見が一致して僕と永良は雨の中傘をさしてカレーの具を買いに「スーパーマーケッツ源治の舟」という近くの店に行こうとしていた途中のことだった。僕らは人気の無い路上を歩いていた。陰気な高架下の道沿いを歩いていると急に発作が起きて永良は傘を落として座り込んだ。僕はいつの日か永良の部屋の卓袱台の上に転がっていた注射器を持ってくれば治るのだろうかと思い家に取りに帰ろうかと思った。しかし永良は濡れたアスファルトに足を伸ばして座りこみフェンスにもたれながら僕に力なく「なんもせんでええ」と言った。

「少ししたらようなる、先、源治の舟行っとくか」

「いや、僕もここにいるよ」

 僕は永良と二人で雨に打たれていれば、何かが変わるかもしれない、とそう思えた。実際、それ以外にできることが何もないように思えた。

 高架下で雨宿りしている雀や鳩が鳴いている。

無人の赤と緑と黄色の三輪車も鳥たちに混じって鳴いている。これから急な坂道を下ってゆくんだ。誰も止められないほどの速さで下ってゆく。誰の声も聞こえない場所まで。雨の水滴さえ届かない場所まで。いつ壊れてもいいところまで。ゆくんだ。何かが変わるかもしれない、そこまで下ってゆけば。

「例えば明らかな人災で生まれた奇形児が、自然の美しさからは離れているのかい」

 永良は少し荒い呼吸でそう言った。永良はよく突発的なことを突然言ったりする。僕はちょうど人工的なものについてぼんやり思っていたから驚いた。人口の灰色のアスファルトに自然の雨が落ちて、音がしている、それを聞きながら思っていた、落ちる場所も自然の草むらの上だったら、また別の音がする、アスファルトの上に落ちなければ聴こえない雨の音を僕らは聞いている。

「アスファルトの上に奇形児を立たせたら、地雷が埋められた野の上に立たせたら、放射能で汚染された地に立たせたら、不穏を感じる。でも本当は、地平線までが草原の地に春の風に吹かれながら立っている、遊んでいる」

「アスファルトの上に立たせると何故不穏なのか言ってごらん」

「アスファルトは硬くて冷たいから、転ぶと怪我をするから、草のように良い香りがしないから、灰色だから、そんなところに立たせたくないから」

「アスファルトの上に落ちなければ聴こえない雨の音を君は聞いている、それが草むらに落ちる音とは違って厭な音に聴こえるのかい」

「僕は両方好きだよ、雨の音はどれも好きなんだ、雨が好きだから」

「アスファルトの地上で足を踏み鳴らす奇形児の音を聞いてごらん」

「草原の上では聴こえなかった音がする、リズムを取って、鼓動と同じリズムで」

 僕と永良はそのとき雨に打たれながら眠っていた。坂を下る三輪車は僕の意識が遠ざかる前によく浮かぶようだ。



九年前の夏、土曜日の午後六時、僕が働いている店「インストゥル麺とうどん」で冷やし中華始めます。という看板を見て冷やし中華食べたさに客がわんさかやってきて僕は少し疲れを感じていた。冷やし中華はとても具が多い、だから大変なんだ、今まで以上にパワフルに動いて俊敏にきゅうりやトマトを切らなくちゃならない。毎日四時間くらいしか寝ていないから眠い、海老と玉子の殻を何個剥いたんだろう。早く帰って永良の顔が見たい。冷やし中華二人前できた、テーブルへ持っていこう。  

僕は座敷の席にお盆に載せた冷やし中華を二つ持って行って客を見た。そこには僕の両親が座っていた。初めて店にやってきたのだろうか、それとも何度目か、僕は冷やし中華を持ったまま引き返したい気持ちに駆られた、でも致し方ない、僕は一従業員の顔で「お待たせしました、冷やし中華でございます」と言ってテーブルの上に冷やし中華を置いた。「うむ」と低い声で言った複雑な表情の父親と、「あら、美味しそう」とつい言ってしまったという母親のしまったという顔を怒るような顔で見た父親の顔から目を背け、「ご注文は以上でよろしいでしょうか」と感情をなくした声で僕が言った。

「うむ、今日は七時で上がりか?車で送ってやるから終わったら来なさい」

 僕は畳みの上に正座して膝にお盆を載せたまま店の者に聞こえないように小さな声で言った。

「なんで?だって僕自転車だし、家庭教師は九時に来るんだよね?」

「自転車は折りたたんでトランクに乗せればいい、今日はまっすぐうちへ帰りなさい、いいね」

 僕はこれに素直に従うことにした、ここで断って聞くような親じゃない。「はい」と返事をして厨房に戻ろうとしたそのとき、僕の目がテーブル席に座ってメニューを見ている永良の姿をとらえた。オーマイゴッド、おお僕の神、僕の神が僕の働いてる店に初めてやって来た。僕はそっと永良のテーブルまで歩いて横に立ち、「ご注文はお決まりでしょうか」と言った。永良は僕に気づいて、その顔は喜びと安心に満たされた。なんて感動的なんだろう、僕の働いてる店に永良がいる。

「毅に会えるとは思わんかった、嬉しいなあ」

「永良、どうやって来たの?」

「電車と歩きで来た」

「けっこう遠かったでしょ」

「いや、毅の作ったうどんが食べたいってずっと思ってたらいつの間にかついてたわ」

「うはははは、うどん作ってくるよ、何うどんがいい?」

「まずは普通のうどんが食いたいな」

「わかった!ちょっと待っててね」

 僕は急いで厨房に戻ってうどんを作った。蒲鉾と葱と天カスと刻み油揚げを多めに入れて、おまけに別皿に海老の天ぷらを添えて持って行った。

「うわー美味そうやなあ」

「海老天は僕のおまけだよ」

「わあーおおきに」

「今日は七時には帰れると思うんだけど、待ってる?」

「ほんまか、ほな待ってるわ」

「うん、またなんか食べたくなったら注文してね」

「おう、いただきまあす」

 僕は厨房に戻ると見せかけて永良が一口食べるのを待っていた。

「美味いっ」

「やったあっ」

僕は両親のいる奥の座敷の席に行った。座敷に上がって座り、「今日は帰るのが八時を過ぎるかもしれない、話があるなら帰ってから聞くよ」と言った。

父親は渋面で「そうか、わかった」とだけ言い僕がほっとして戻ろうとしたら、父親が「これ、おまえが作ったのか」と言った。

「うん」

「なかなか美味かった、お母さんに今度教えてあげなさい」

「うん」

 僕は複雑な心境で厨房に戻った。戻る途中、永良の席と逆のほうから客に呼ばれたので、永良の席の前を通れなかった。母親がいつも家にいたなら、僕はもう少し違ったのかもしれないけれど、料理のへたくそな母親がうまい冷やし中華を作れたとしても、僕は変わらないのに。

 皿洗いをしていると左肩を後ろからぽんと叩かれ、「おつかれ」とごま塩ひげを生やした大将から声をかけられた。時計を見ると七時を少し回っていた。

 臙脂色の前掛けをとり黒の半纏を脱いでそそくさと帰り支度をした。今日は永良と一緒に帰れる!なんて嬉しいんだろう。僕は青いリュックを背負って永良のところまで行った。永良の後姿は左の窓の外を見ていた。僕は永良の横まで行って「おまた」と言うと永良は振り向いた。永良は少し疲れた顔で微笑んだ。

「少し顔色悪いよ、帰りはタクシーで帰ろうよ」

「いや、大事無い、歩いて帰ってもそんなかからんやろ」

 僕は自転車は置いて帰ることにした、永良がしんどくなったらすぐにタクシーで帰れるように。永良と店を出て、自転車を邪魔にならないように端っこに寄せようと思い、自転車置き場に向かった。

「あれ、自転車がない」今日の朝、置いたはずの場所に自転車が無かった、ほかの場所を探していると、僕と永良の後ろに車が来て、クラクションが「パッ」と一回小さく鳴った。僕と永良は振り返った、するとそこに、クリーム色のマイバッハが止まっていた。左座席の窓が開いて父親が「今夜はこれから雨が振るそうだから、後ろに乗りなさい、自転車は積んでおいた」と言った。

 僕は勝手なことをする親にキレそうになったが、永良の前だからおさえて「僕は歩いて帰るよ」と言い、永良の腕をつかんで帰ろうとした。するとマイバッハがバックして僕と永良の前に横になって滑り込み、父親がもう一度言った。

「いいから乗りなさい、彼のうちまで送るから」

 そのとき雨がぽつぽつ頬に当たって、僕は永良の顔を見た、さっきよりも青い顔をしている。僕は永良が心配になり、タクシーを呼んで帰ろうと言おうとしたら、永良は父親に向かって頭を下げ、「すんません、ほなお言葉に甘えます」と言って後部座席のドアを開けて、僕に先に乗るように目で促した、僕はもしかして最初から永良と僕を車に乗せるつもりで親は店に来たんじゃないかと呪いながら車に乗った。僕はイラつきを押し込めて永良の家の場所のあたりを父親に伝えた。永良はその手前の駅のところでいいと言ったが、雨も降ってるし永良の身体が心配だったからもう少し近くの場所まで送ってもらったほうがいいと言った。普通に走ったら十五分もかからないだろうに道はとても渋滞していてほとんど動かなかった。事故でもあったのかもしれない。運転席と助手席の背面の中央にある液晶テレビをつける、リモコンでチャンネルを0.5秒の速さで変えてゆく、なんの面白い番組もやっていない、永良はシートにぐったりと背をもたせて目を閉じている、また発作が起きたのかもしれない、横の窓には車のライトやネオンサインで赤や黄色に光った雨の粒が垂直に落下していく、汚れた流れ星なんだ、永良に僕の親を会わせたくなかった、永良は今、世界中で一番汚く腐ったもので溢れたゴミ箱よりも汚い車の中で眠っている、一億以上の金をゴミ箱に捨てた僕の親の後ろで、その親から生まれた僕の隣……美しいゴミ箱、ゴミが入るための車型ゴミ箱、生ごみ、生米、生卵、生ゴミが父親で生米は母親、生卵は僕、そんな母親の胎内の中で最初、玉子だったから、地上221メートルの小屋の中で生活している雄鶏と雌鶏と若鶏、雄鶏は生ごみをつついている、雌鶏は生米をつついている、若鶏の僕は生卵をつついている、それは自分だ、かつての自分であった卵、受精卵をつついているんだ、ほかにつつくものがないから、僕は僕であった受精卵をつついている、何も考えずに、つつく、雄鶏は生ごみのまずさを知らない、雌鶏は米さえろくに炊けないから生米をつつくしかない、僕は僕である受精卵を鼓舞するために、つついてるんだ、そこへ永良鳥がやってきた、永良鳥は僕である受精卵を嘴で転がした、強く鍛えるためだ。横の窓を見る、真っ暗闇に緑や青に光るいくつもの受精卵が垂直に落下してゆく、美しいコンクリートの胎盤から産み落とされた受精卵がゴミでふかふかの布団の揺り篭の中に落ちてゆくんだよ、人工授精で僕が誕生する、超自然的に誕生したんじゃなくて無理矢理精子と卵子をくっつけて人の馬鹿な手で僕の元である受精卵を作られたんだ、人工の息、人工の目、人工の心、人工の僕、だから僕は僕である受精卵をつついて鼓舞しなくちゃならない、永良鳥が眠っている、きらびやかな受精卵が降り続く、人々の頭上に蛍光色に光る受精卵が降り積もるんだ、それらが人々の鼻の中に入っていって鼻毛を羽毛布団にしてすやすやと眠り成長してゆく、そして胎児になったら鼻糞に混じって出てくるのさ、鼻糞胎児の誕生だ、それらは鼻糞として生き、やがて死ぬときがやってくると蒸発して雨となる、そして生まれ変わるんだ、同じ存在に、人工の鼻糞人間に成長、ゴミを作りまくってゴミの小屋で寝てゴミをつついてゴミの会話をしてゴミの笑顔を浮かべてゴミの夢を見る、鼻糞人間はそれでも笑ってる、そして泣いてる、鼻糞であることを気づかずに泣いてる、鼻くそ、鼻くそなのに、鼻くそなのに、気づかないんだ、鼻くそだから、鼻クソが鼻クソにがんばれよってゆうんだ、鼻糞が鼻糞を励まして生きるんだ、でもそんなにがんばったって鼻くそじゃないか、自分のためばっかりにがんばってるから鼻くそなんだ、自分のためにお金を儲けて暮らしてるから鼻くそなんだ、彼らは鼻くそであることに気づいたら死んでしまうんだ、でも死んでもまた鼻くそなんだ、鼻糞受精卵だよ、鼻糞の誇りで泣いて笑って、また鼻糞に生まれてくる、君は鼻毛が二本付いてる、君は鼻毛が五本も、素晴らしい、わたしは鼻毛が七本付いてます、すごいでしょう、そんなことで羨ましがったり自慢したりしてるんだ、それは自分である鼻糞から生えたんじゃなくって誰かの鼻毛がくっついてるだけだよ。

 僕はくしゃみが出た。ばっぶしっ、あぁー。

「少し温度上げてもらえますか」と僕は親に向けて言った。僕はティッシュペーパーで鼻をかんだ、するとティッシュペーパーに鼻糞がついて、しかも鼻毛が三本近く刺さっていた。少し嬉しかった。とても眠い。

 肩を揺さぶられて目を覚ました。眠っていたようだ。永良の膝に倒れて眠っていたのか、え?永良の家に着いたの?僕は目をこすりながら身体を起こした。

 なに?なんて言ってるの?僕の親たち。

「毅は今日はこのままうちに帰り」

 え?なんで?やだよ、僕、永良のうちで晩御飯作って一緒に食べるんだ。

「ええさかい今日は親と一緒にうちかえり」

 なんで?あんなゴミ溜めの高層ビル厭だよ、鼻糞ビルだし、雄鶏は生ゴミをつついて雌鶏は生米をつついて僕は若鶏にならなくちゃならないんだから、永良、僕の親からなんか言われたの?

永良は疲れた顔で笑っていた。目が覚めると僕のゴミ溜めの家に着いていた。

鼻糞が歩いている、いや、鼻糞の身体で僕は歩いて鼻糞のドアを開ける、鼻糞の靴を脱ぐ、鼻糞の廊下、プッギーが出迎える、プッギーに鼻くそのご飯を与える、鼻糞人間の僕の親が僕に話しかける。

「話があるからそこに座りなさい」

「先にシャワーを浴びてきてもいい?」

「わかった、シャワーじゃなくお湯を溜めて入りなさい、疲れが取れないだろうから」

「はい」

僕は湯船にお湯を溜めているあいだ部屋に戻って部屋の窓を開けてバルコニーに出た。ここはゴミ溜めの小屋なんだ、本当に、僕はベランダの屋根と壁のあいだすべてに張り巡らされたガラス窓に落ちる黒い粒の水玉を見上げた。僕が十四歳のときここから飛び降りようとしたことがある、親は二人とも歓喜の叫びに似た悲鳴を上げた、その声に驚いた僕は意識を失って倒れた。気が付くと病院にいた。抜け出した次の日の夜、ベランダに出てみると、そこはすべて強化ガラスに覆われていて外の空気はかろうじてもう一つの身体が出ないほどの大きさの窓からしか入ってこなくなった。あの日ほど笑いが止まらなかった時はない、僕は涙を流しながらずっとずっとベランダのガラスの壁と屋根の間にあるガラスの壁を見上げて笑っていたんだ。ガラスに映った自分が可笑しくって苦しくて泣きながら笑っていたんだ。なんで夜空があるところに僕の姿が映っているのか誰も教えてくれなくていい、それよりほら見て、みんな見てほしい、闇に僕が映っている、偽者だ、こっちにいるほうの僕が、息苦しくて死にそうだと言ってる、本物の僕が、でも偽者のほうの僕は別に生きたくも死にたくも無かった、ただロープをつけずに高層マンションからバンジージャンプしたくなっただけじゃないか、どこかで静かに崩れ落ちる自分の音を聴きたくなっただけじゃないか、ひよわなマシーンを壊して強固なマシーンに仕立てたかった、だ、け。ピーピーピーピーピー、お湯が溜まった。僕は着替えを持って風呂場に向かった。

 湯船に浸かって目を閉じる。何処にも向かうことのできなかった受精卵を迎えるんだ。僕である受精卵を泳がせる。終わりの無い日までこうして、泳ごうとする。ここの水滴たちはけがれを知らないから、たくさん混じりあって元気になるといいよ。いつか、空虚な魚たちを探し出して仲良くなって、水の底の秘密の場所を教えてもらう。そこの主である大きな優しい目をした鯨より大きな魚の胎内に僕らの受精卵を宿して、温めてもらうんだ、その魚は何より温かい身体をしてるんだ、最適なんだ、僕らの何処にも向えない受精卵を宿すには、僕が見つけるんだ、永良の受精卵も温めてもらうために。盲目の魚なんだ。盲目の坂を下り泳いでいく魚たち、赤い魚、緑の魚、黄色の魚。光がもうとっくに届いてないよ。どこまで下りてくの。何も見えないじゃないか。

 ぶっはあっ。げほっ。僕は気づくと湯船の中でまた眠ってしまっていた。入浴剤の溶けたお湯を飲んでしまった。のぼせているし洗うのも億劫だったので今日は浸かるだけにして上がって身体を拭いて青のチェックのパジャマに着替え、キッチンで水を飲んだ。

「冷蔵庫にお寿司があるから食べなさい」

 リビングでテレビを見ている父親が言った。LDK35帖のリビングダイニングキッチンの無闇に広いダイニングテーブルのチェアに座ってお寿司を一人で食べる。ずっと三人暮らしだがダイニングチェアは僕が生まれたときから四つある。僕の左隣の席がいつも不在なんだ。

 リンオーン。玄関チャイムが鳴った。時計を見ると9時ちょっと前、家庭教師の魚谷依留がやってきた。母親がハイハーイと言いながら玄関まで走ってった。僕はまさか話って、四人でするんじゃないだろうなと思い、心がうろたえてお寿司が喉に詰まりそうになって慌ててお茶を飲んだ。

「毅くん、こんばんは」

 振り返ると鮮やかなオレンジ色のワンピースを着た魚谷依留がドアから入ってきて僕にそう言った。僕は口をもぐもぐしながら「あ、どうもこんばんは」と無愛想な声で返した。魚谷依留は母親から僕の隣に座るよう言われた。何故?僕はまだお寿司を食べてるんだ。人が食べてるときに、食べない人が隣に座ってほしくないんだよ、って永良ならいいけどさ、ほかの人は嫌なんだよ。魚谷依留は澄ました顔で「はあい」と言って僕の左隣に座った。よっていつも不在だった僕の左隣の席が存在になった。なんなんだよ、まだ食べてるのに。するとそのとき母親が「よかったらお寿司食べて頂戴ね」と言って魚谷依留に割り箸と小皿を与えた。魚谷依留は「はい、頂きます」と言って僕が食べてる横でお寿司の桶から胡麻鯵を取って食べた。魚谷依留が左隣に座ったからテレビが見えない、僕は真正面の壁にあるクリムトの接吻の絵画を見ながら寿司を食った。ご飯を食べながら見るような絵画じゃないといつも思う。それなのになんで僕の席の真正面にあんな絵画を飾るの、厭味なのか、そんなことを言ったらなにもかもが厭味の家だけどもな。僕は大好物のゆでた海老があと一つだったので、子供じみているとも思いながらも海老が食べたいあまりに素直に魚谷依留に聞いてみた。

「海老、食べますか」

 魚谷依留は突然何のことを言ったのかわからないという風に聞き返した。

「え?」

「海老、好きですか」

 僕は言ったものの恥ずかしくて同じことを二度繰り返すのは二度同じ恥を経験しなければならないから少し変えて聞いてしまった。

「はい、好きです、毅くんも好き?」

「はい、僕も海老、好きですよ」

「そうなのね、甘エビの正式名称はホッコクアカエビと言って新潟県ではナンバンエビと言うの、甘エビは北陸から北の日本海にかけて水深200から600メートルの深海の砂泥底に生息していて食性は肉食性で小型の貝類や甲殻類や多毛類ゴカイみたいなのとかを捕食していて主に底引き網で漁獲されているの。天敵は人間のほかにも頭足類イカやタコとかタラやアコウダイやサメなどの肉食魚がいる。また鰓腔〔さいこう〕というエラを収納したエラ蓋で覆われた空間である外部呼吸器官にエビヤドリムシが寄生して頭の上のとこらへんの一部が黒く膨れ上がったりする。ほかのタラバエビ科と同じく雄性先熟といって皆最初はオスとして生まれてきて5年から6年間オスとして成長し、交尾した後メスに性転換する。これが高級なシマエビと呼ばれているホッカイエビだと1歳でオスとして成熟し繁殖に参加して、2歳になると今度はメスに性転換して繁殖に参加する。だから市場で見る大型の甘エビは総てメスなの。甘エビのメスは春から夏にかけて産卵し、約10ヶ月受精卵をお腹の脚に一度に2000個から3000個抱きかかえて孵化するまで保護し冬に幼生を放出する。孵化した幼生はゾエア幼生と言って親の形と少し違う遊泳脚を持っていてプランクトンとして浮遊生活を送るの、ほら、ちりめんじゃこやしらすの中に小さなカニやエビみたいな生物が混じっているのを発見したことはないですか?あれがゾエア幼生なんです」

「ありますよ、僕はあの小さなカニやエビを探して集めてそれだけを味わって食べるのが好きだったんです、ところで僕が好きなのはこの茹でたエビです、でも魚谷さんの話を聞きながらほかのものを食べてるうちにお腹がいっぱいになったのでこのエビは魚谷さんが食べてください」

「わかりました、では頂戴します」

「ちなみに、エビヤドリムシってそのままですね」

「ほんとうに、毅くんならなんて名前をつけるのでしょう」

「どんな奴なんですか」

「ワラジムシ目で白くて透明がかっていてメスは踏んづけたダンゴムシ状でそのメスにはメスの20分の1ほどの大きさのダンゴムシのもう少し細長い形のようなオスがくっついているの」

「じゃあ、僕ならヒモムシってつけるな、だってオスはメスに寄生してメスはエビに寄生しているから」

「残念ながらヒモムシはすでにいるの、みな滑らかで平たいひも状の身体をしているの」

「そのままじゃないですか、じゃあヒモヤロウムシでいいですよ」

「紐という言葉はとても深い意味が秘められていて、秘密の秘に結い緒の緒と書いて霊能の意味からきた秘めから秘緒〔ひめを〕と呼ばれるほど古代人は緒に神秘の力が宿っていると信じて緒を身に帯びて身の護りにしたり、夫婦や恋人が一時別れる際に互いの紐をほどいて結び、再び会う日までその紐を解かないことを誓っていたりしたの、年の緒は年が長く続くことを緒に見立て、臍の緒は母体と胎児をつなぎ、これがないと母親から栄養を摂ることができない重要な器官だし、平安時代は生命のことを魂や霊の意味である玉に緒を付けて玉の緒と言ったり、または玉をつなぐ緒は短いことから短いことのたとえとなった、息の緒は生きているのは息が緒で繋がっている状態だと考えているように命の限りや、命にかけてという使われ方をするの」

「それはわかりましたけど、女性に貢がせている男性がヒモというのは何故ですか」

「それは働いている女性を手繰っていくと男性がいたというところからそういった女性がヒモ付きと呼ばれるようになり、男性自体はヒモと呼ばれるようになったことや、物を縛る紐の意味から男女の絆を紐に見立てていたことから来ているようです」

「紐は男女の絆と、生命を保たせる存在の意味があるいうことですね」

「その通りです」

 そのとき、テレビを見ていた父親がソファから立ち上がりテーブルの前に立って僕に言った。

「毅は憶えてないかな、五歳くらいのとき依留さんのお父さんとまだ中学生だった依留さんと一緒にみんなで奄美大島に行ったことがあるんだ」

 僕は憶えていた、あのときのお姉さんが魚谷依留だったとは驚いた。魚谷依留の父親のことはもっと憶えている。あの人は僕に。

「ううん、憶えてない」と僕は嘘を言った。

「そうか、まだほんとうに小さかったからなあ」と言って父親は魚谷依留に微笑みかけて僕の向かいの席に座った。パソコンデスクの場所から母親がやってきて「依留さんレモンティー飲む?」と聞いて魚谷依留が「はい」と返事をした。「毅は?」と聞かれて「飲む」と答えた。

 おもむろに回想をするかのように父親は話し出した。

「魚谷君はお父さんの一番の腹心の部下でね、魚谷君以上の友人はいなかった、日頃からとても頼りにしていた。しかしその奄美大島にみんなで旅行に行った次の年に、魚谷君はメキシコに出張が決まってしまってね、約半年の出張だった。お父さんはずいぶん上の人に代えてもらうようにお願いしたんだけれども、魚谷君は自分が行かないでほかの人が行って何かあった場合申し訳が立たないと言って、依留さんを親戚のうちへ預けて自らメキシコへひとりで旅立ったんだ。当時ちょうどメキシコの治安が悪化していたときだったからお父さんもとても心配だったんだ。半年もの間何も起こらなかった、あと半月ほどで任務が終わるというときだった、その日、依留さんの十五歳の誕生日だったんだ、魚谷君はその日仕事が早く終わって地下鉄に乗っていつもとは違う駅で降りた、ちょうど依留さんの生まれた時間の少し前だったから、駅の公衆電話から依留さんに電話をかけようとしたんだ、夕方のラッシュで人がたくさんいる中に公衆電話を見つけて魚谷君は依留さんに電話をかけて、依留さんに『お誕生日おめでとう』と言った、喜ぶ依留さんの声を聞いたそのあとに『もうすぐ帰る』と言った瞬間、何か電話の向こうでメキシコ語か何かで男が叫ぶ声が聞こえて、それと同時に銃声が聞こえてその後も何発か銃声が聞こえて何か騒がしい音がガヤガヤと聞こえて電話が切れてしまった。一時間ほどあとにメキシコの警察から電話がかかってきて、魚谷君はカルト集団の一人の男に突然胸を打たれて亡くなったと聞いた。男は麻薬を所持していて意味不明の言葉を叫んだ後に銃を乱射して捕まった。後からよく事情を聞くと男は牧師の格好をしていて聖書の言葉と思われる『真理があなたがたを奴隷解放する』と叫んだことがわかったんだ。7人が撃たれて、撃たれた人の中には重症の人もいたが亡くなったのは魚谷君一人だった。」

 そう話し終えて父親はカップに手をかけレモンティーを二口飲んだ。

「って話をね、いつか依留さんから毅に話してやってほしいと言ったらお父さんから話してほしいと頼まれたから、こうしてお父さんから毅に話すことにしたんだよ、なんだ、なんだか変な顔をして、勉強を真面目にやってるかという話よりも複雑な話だったろう」

 僕は少し顔が赤くなった気がした、どんな顔をしていたんだろう。勉強をちゃんとやってるかという無駄な説教よりずっと楽な話だったとはさすがに言えなかった。しかし何故これを僕に話したんだろう、これはつまりそんな大変な経験をしてきた魚谷依留なのだからいい加減に付き合うのではなく、誠心誠意を尽くして勉強に励みなさいという意味なのだろうか。

僕が黙っていると父親が「今日の話はこれで終わりだから、今日は勉強は十二時まででいい、睡眠はしっかりとれてるのか?」と言った。

「うん」と答えて席を立って自分の部屋に向った。今日はなんだかとても疲れている、今夜は永良の家に行かずゆっくり睡眠をとろうか、永良大丈夫かなぁ。

 ベッドに横になって永良の心配をしていると魚谷依留がドアをノックした。起きてドアを開けて迎えた。一瞬だけ見た魚谷依留の目は少し赤らんでいるように見えた。いつ泣いたんだろう。そんな目で勉強をしようというのか、僕は嫌気がさしてテーブルに教科書を出した魚谷依留に向って言った。

「今日はとても疲れてるので先に一時間休んでいいですか」

 魚谷依留は赤らんだ目で僕を見て返した。

「わかりました。では一時間経てば起こします。ゆっくり休んでください」

 僕はベッドに横になって魚谷依留のほうへ背を向けた。

 目を瞑って永良のことを考えようとした。すると永良の姿が魚谷依留の父親の姿に変わった。そういえば永良と魚谷依留の父親はどこか似ている雰囲気がする。魚谷依留の父親の面影が永良に重なる。

 十二年前の夏の日、幼い僕は魚谷依留に手を引かれて、そのもう隣に魚谷依留の父親がいた。両親はいなかった。僕の心はわくわくしていた、両親がいないのだから何をやっても叱られないし干渉されないと思っていたんだ。それはあんな小さいときから僕が両親の異常な保護と教育に縛り付けられていたことを証明している。

夜の島はとても暗い。街灯の明かりにかろうじて照らされた薄暗い道を少しでも外れたら、都会には存在しないような濃い闇に覆われる。三人でそんな闇とひととなりの道をあるいているとき、僕はその闇の先に何かを見た。薄明るい物体、きっと違う世界からやってきた物体だと瞬時に幼い僕は直感した。僕はまだ少女だった魚谷依留の滑らかで、冷たい、ああ、あの時から冷たいんだ、冷たく汗ばんでいて魚みたいな手だった、その手を離して闇の中へ走ってった。そのぼんやり明るい物体を捕まえたかったわけじゃなく、僕を違うところへ連れてってほしい、そう頼むためにそこへ駆けていった。必死になってお願いしようと、そうすればきっと叶えてくれる、何か僕の大切なものを奪われたとしても、何が大切かわかってない、それと引き換えにしても、違うところへ行ってみたい、じゃなく、違うところへどうしても行きたかった、行かなくちゃって気持ちで夢中になって不気味に光る物体に向って突っ走った。ぼやぼやと光る身体は逃げもしなかった、でも一向に近づけない、走っても走っても遠い、僕はだんだんと恐ろしくなった、なんでこんなに走っても近づけないんだろう、ずいぶん走ってきたはずだ、もしかしてこの真っ暗なここが違う世界なんだろうか、僕はふと辺りを見回した、本当に真っ暗だった、真っ暗に見えた、そしてまた光る物体のほうへ目を向けた、するとそこも真っ暗だった、置いてかれた、いや、違う、さっきまで薄く光っていたあれは実は闇の化身だったんだ、今そいつが僕を覆っているんだ、僕をここへ呼び込んで、僕が無事にやってきたからもう戻らないように闇の身体で覆って逃げないようにしてるんだ、僕は助けを呼んだ、言葉になっていない助けをわめき続けた、恐怖で身が張り裂けそうで自分の叫び声もまた恐ろしかった、すると何かうすぼんやりと明るい物体が僕に近づいてくるのが見えた、光方が違う、僕はその途端とても安心したのを憶えている、あれは必ず僕を助けてくれる物体だ、そう確信して、恐怖の絶叫は、僕はここにいるよ、と居場所を教えるための、わーわーわーわー、という遊んで声を出しているような声に変わった。何者だろう、もしかしてこの光る物体こそが本当のずっとずっと遠い違う世界へ連れてってくれる物体かもしれない、僕はもうそこへ走り出さなくてもいい、必ず僕のところへそれはやってくるからだ、僕はその光の体に向かって、わーわーわーわーと呼びかけた。物体はやがて僕の目の前まで来て、その姿をあらわにした。それはほっとした顔で優しそうに微笑んだ魚谷依留の父親だった。僕は意味もわからず、あの時すんなりと、おじちゃんだったのか!と驚き喜んだ。そして魚谷依留の父親の力強い腕に抱かれ闇の世界を脱出した。

僕はあの人に助けられた。それなのに十三年経ってあの人が理不尽に殺されたことを知ってもなんとも思えないのはどうしてなんだろう。僕を恐怖の闇世界からここへ戻してくれた。それから僕はいつ遠い違う世界に連れてってもらえるか期待してとてもあの人を慕うようになった。自分の親には絶対しない手を自分からつないだり、抱っこしてもらうことをせがむようになった。でも何処へも連れてってくれず長い旅行を終えて帰り、それ以降会うことはなかった。どこかで恨んでいるのかもしれない。ぬか喜びさせた、という、僕の期待と敬慕を裏切ったことへの恨みみたいなものが潜在する意識の中にずっとあるから、殺されたといわれても、何も感じない、むしろ僕を裏切ったからそんな目に合ってしまったと、僕の内にまだいる子供の僕が言っているような気がする。意識の深海域でずっとあの人を恨んできたわけだ、真っ暗な海の底で連れ出してくれなかったことを、子供の僕は闇から救い出してもらえたのではなく、あの人によって一生抜け出せない闇へ葬られたのじゃないのか、だったら子供の僕を闇の底から救い出さない限り今の僕もこれからの僕もずっと闇から抜け出せない。

光り方が違うと思っていたあの人が、最初に僕が見たほの明るく光る物体と同じ光を放ち、闇の中に立って優しく微笑み僕を手招きしてる。今度こそ、違う世界に連れてってくれるんだ、僕は歓喜してそのほうへと走り寄る。ぐんぐん近づく、もうすぐ手が届きそうだ。伸ばした左腕の肩を何者かに引っ張られその者が僕の名前を呼んだ。

「毅くん。一時間が経ちましたよ」

 僕は目を開けると魚谷依留が少しさっぱりした表情で微笑んでいた。目はまだ赤かった。魚谷依留の顔を見た途端さっぱり見ていた夢を忘れてしまった。僕は勃っているところを気づかれないように起き上がって顔を洗いに行った。戻ってきてテーブルの前に胡坐をかいて座った。向いに座った魚谷依留が生物工学の教科書を広げた。教科書を朗読しあう。寝起きでぜんぜん頭に入んない、一ヶ月末の模擬テストで点数が悪いと本当に4時間ちゃんと勉強を真面目にやってるのか親に覗きに来られたりしたら面倒だ。意味なんて分からなくていいからとにかく頭に入れないと。



 次の朝、日曜日、朝早くに大将から電話がかかってきて疲れ溜まってるみたいだから今日は休めと言われて僕はそれから二度寝して朝十時に起きてプッギーに餌と水をやって家を出ると永良の家へ向った。家に永良はいなかった。どこに行ってるんだろう。せっかく今日は一日永良と遊べると思ったのにな。今日はよく晴れている。僕はその辺をぶらぶらしたり、いつも永良と一緒に行くショップに行ってみたりした。朝食を永良と一緒に食べようと思っていたから何も食べてこなかった、腹がすいた、なんか食べたい、僕は駅前のファーストフード店「パークボンブ」に入って海老カツサンドウィッチとカヘ・オ・レを頼んで窓際の席に着いて窓の向こうを見ながら食べた。やっぱりここの海老カツサンドは美味い、永良と一緒に食べたかったなあ、あ、もう家に帰ってるかもしれないな、持ち帰りで持って帰ればいいんだ、そうしよう、と思いながら食べていると、右隣の席に若い男が二人どっかと座り込んでうるさくしゃべり始めた。顔は見ずに話を聞いていると、「なんで俺たちがぶっちされなきゃいけないわけ、なんで約束したのに来ないわけ、その約束に何の意味があったわけ、女はこれだから嫌なわけ、これから俺たちどうするわけ、どっかおまえ行きたいところあるわけ」というようなことを話していて随分いらだっていてそれで必要以上にうるさいらしかった。僕は早々に食べ終わってカヘ・オ・レをズズっとすすって席を立とうとして立ち上がった。すると窓のほうに座っていた男が僕を見上げて「あれ貴島じゃん、マジで貴島じゃんよ、おまえ何シカトぶっこいてるわけ」と言った。

 僕はその男の顔をじっと眺めた、少し後に、ああ、こいつ同じクラスにいた奴だと思い出した。名前なんだっけな、忘れた。僕は素直に言った。

「別にシカトしてたわけじゃなくて、気づかなかったんだ」

 するともう一人のくりくり栗色頭の男が笑いながら言った。

「こんな奴に覚えられててもろくなことねえよ大崎、こいつが何やってたか覚えてねえのマジ」

 もう一人の男も同じクラスにいた男だったが名前が思い出せなかった。窓際の黒縁メガネをかけた男が大声で言った。

「いやいや忘れられないっしょ、あれは、ねえ貴島君、もしかしてまだイタイケな猫ちゃんたちを殺してるんですかあ?」

 周りにいた客が視線を僕に向けているようだ。僕は視界がぐらぐらしてきて赤と緑と黄色の絵の具が視界の上から垂れてきて混ざって汚い色になった。脂汗が垂れてきて海老カツサンドが胸を上がってきてそれをこの男の顔にぶちまけたくなった。でもこの男は僕のゲロ以上に汚いので僕のゲロで少しは綺麗になるだろう。僕は殺した猫の数を数えたことがなかったことを思い出し、数えてみようと思った、みんなにわかるようにできるだけ大きな声で。指折りながらゆっくりと大声で数えた。

「僕が殺してきた猫の数は」

「イチ」

「ニィ」

「サン」

「おい、こいつやべえよ、行こうぜ、早く食えよそれ」

「シィ」

「あっもういいや、歩きながら食う、出よう」

「ゴ」

「ロク」

 僕は窓の外に何か影がよぎるのが見えた。それは僕が殺してきた猫たちで僕の影がいつのまにか窓の外まで長く伸びて、その真っ黒な影に真っ黒な猫たちの影が吸い込まれて僕の影が成長して空まで伸びて空から僕に長い柄の剣を振り下ろした。僕と僕の影が離れた、僕の影が自分の影の足の部分を切ったんだ。切った影の断面から生身の身体が生えてきた。それは僕の姿だった、ってことは僕のほうがやっぱり影。

 気づくと僕は永良の背中に負ぶさっていた。永良の背中あったかい。どこを歩いてるんだろう。もっと早く永良に出会えてたらよかったな、そしたら猫は殺さなかったって、猫を殺さなかったら永良にこうして出会えてないのかな、猫は僕と永良が出会うために殺されていたのか、犠牲を払ってくれたんだ、僕のために。

「どこか水の流れるところへ行きたいよ」と僕は後ろから永良に言った。

「水か、ほな下水道は水流れとるかなぁ」

「やだよ、臭いよ、綺麗な水がいい」

「ほなナイヤガラの滝に行こか」

「遠すぎるな、でも永良といつか行ってみたいな」

「今から行こ、魂だけをな、ポポーンと飛ばしたらええねん」

「ポポーン、飛んだかな」

「飛んだかなゆうてたら飛んでないやろ」

「ナイアガラの滝ってどんなのだっけかな」

「それはそれはすっばらしい天の国かと思ってまうほどのごっつい滝ちゃうか」

「天国ってあるのかな」

「ナイヤ、っちゅうてたらガラって誰か戸を開けた、そこがナイヤガラやったっちゅう話ちゃうか」

「じゃあガラって開けた後に、ナイヤ、だったらガラナイヤになってたんだね」

「そうゆうこっちゃな」

 僕と永良は近くの広い川のところへ行って土手に座って川を見ながら足を伸ばした。日が少し西へ傾いていた。流れている水が本当に綺麗かどうか分からないけれど永良と一緒に眺めると綺麗に見える、日が水面を反射させて波が煌めいている。パークボンブで突然意識を失って倒れた僕のリュックに入っていた唯一の連絡先は永良の家の電話番号だった。ちょうど家に帰ってきたばかりの永良は電話を受けて飛んできてくれたようだ。

 胡坐に座り変えて川の向こうのほうを見ている永良に向って聞いた。

「昨日、僕の親なんか言ってた?」

 永良は川の向こうを見ながら答えた。

「五百万くれたわ、毅ともう会うなって言われてんけど、会ってもうたなぁ」

 僕の心はなんともなかった。むしろ親が何も言わずに永良を帰すほうが後で何かもっと怖いことするんじゃないかって思って怖かっただろう。

「大丈夫だよ、そのつもりで五百万なんてあの人たちからしたら安い金だしたんだ、僕、そんな親のこと好きになれないんだ」

 永良は振り返って僕の頭をぽんぽんと叩いてまた川のほうを向いて言った。

「コアラの母ちゃんはコアラの赤ちゃんに自分の糞食べさせるにはわけがあんねん、知ってるか?」

「なんか聞いたことあるけど、詳しくは知らないや」

「ほうか、俺もよう知らん、ただコアラの赤ちゃんはコアラの母ちゃんの糞のおかげで生きていけるっちゅうことや、糞は糞でもありがたい糞なんやのお」

 僕は意味が良く分からなかった。水面がきらきら輝いていてそれ以上に永良は耀いていると思った。



 月曜日の夜、僕はうちにやってきた魚谷依留に訊ねてみた。

「魚谷さんはコアラのお母さんがコアラの赤ちゃんに自分のうんこを食わせる詳しい理由をご存知ですか」

 すると魚谷依留はメガネの真ん中をくっと上げてうれしそうな顔をして応えた。

「それはコアラの主食であるユーカリの葉や芽には大量のタンニンという成分が含まれていて、それが蛋白質と結合することで消化しづらくなっているのだけれども、コアラはまず七百種以上あるとされるユーカリから食用になる数種類のユーカリを匂いで選別してから食べる、コアラの盲腸は二メートルほどもあって大きさからするととても長い盲腸の中でゆっくりとユーカリの毒を分解して消化吸収する腸内細菌を持っているのです。ところがコアラの赤ちゃんはこの腸内細菌を持っていないのでお母さんコアラがそれを半分消化した緑色のパップという離乳食を腸内で作って、生後約二十二週で目が開いてお母さんコアラの腹部にある育児嚢という袋の中からできていた赤ちゃんコアラはパップを約六週間から八週間食べてようやく一人前にユーカリを消化できる微生物を得るのです。」

 僕はふうと息を吐いて言った。

「たいへん綺麗にまとめましたね。でも僕見たことあるんですよ、コアラの赤ちゃんがうんこまみれになってお母さんコアラの肛門から直接もりもりうんこ食ってるビデオを、なんか自分が糞を食ってるみたいな感覚におちいって良い気分ではありませんでした」

「それは人間がそういった習性がないことで偏見的になっているだけです」

「そうですね、そういった習性がないからパップって言われたってピンとこないんですよ、人間からしたらやっぱりうんこにしか見えないですよ、大事なのはパップとか言って綺麗に言うんじゃなく、うんこ自体が別に汚いものじゃないって教えることじゃないんですか、実際汚くて臭いんですけど、でもそれが出ないと人間死んでしまうわけじゃないですか、それを臭くて汚く雑菌だらけだからって必要以上に嫌悪してる部分があるじゃないですか、それこそ偏見だってことを教えていったほうがいいんじゃないですか、特に子供のときから」

 僕は自分で何を熱くなってるのかわからなかった。自分で糞は汚いと言っといて、魚谷依留に対してなんで糞が汚いのかと怒っているようだった。魚谷依留はびっくりした顔をして目を伏せ、「そのとおりだと思います、私の勉強不足でした」と何故か謝った。

 魚谷依留が帰った後、僕はさっきの話を永良が説明した場合どうなっていたかと想像してみた。

「コアラのお母さんは自分のコアラの赤ちゃんに自分の糞を食べさせるんや。知っとった?」

「なんか知ってる」

「なんで糞を食べさせんね」

「赤ちゃんはまだ硬いユーカリの葉を食べられないから柔らかいうんこ食べさせるのかなぁ」

「それはそうとしても、糞っちゅうと栄養全部抜けた後のカスカスのもんのはずやろ」

「子供ができたら栄養の残ったうんこが出るとかかな」

「当たりや、ユーカリの葉っちゅうのは子供にとって毒なんや、親は消化できるもんを子供は消化できん、しゃあからコアラのお母さんは半分だけ消化してあと半分栄養の残った糞を子供に与えるんや」

「でも子供が消化できないんじゃ子供は半分の毒が回ってしまうよ」

「ところがどっこいコアラのお母さんは盲腸で子供が消化できる腸内細菌を糞の中にめり込んで出すんや、そのおかげで徐々に子供はユーカリの葉を消化できる体になっていく、見た目は糞やが中身は子供にとってありがたいもんやっちゅうことやな」

 きっとこんな風だなぁと僕は思って顔がほころんでくるのが分かった。





 九年前の秋、



















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